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《結婚しても子供はつくれなかった》杉良太郎「ハンセン病患者」の痛みに寄り添う「全国の療養所を回り、差別と偏見と闘う」

全国を回る決意を表明した杉。
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「私は今日“決意”を持って皆さんに会いに来ました。ただの慰問ではないんです」

5月中旬、鹿児島県にある国立ハンセン病療養所を訪れた杉良太郎は、語気を強めて覚悟を明かした。そしてその背景を語り始めた。

1989年、チャリティー公演で訪れたベトナムでの出来事だった。道端であえぎ苦しむ子供を見て助けようとすると「感染するから触ってはいけない」と、同行していたベトナムの役人に突き飛ばされたという。そこでハンセン病という存在を知った。当時、杉は45才。苦しむ人に何もできなかった無力さをひどく恥じた。

2年後に再訪したベトナムでは、路上で倒れている患者にあろうことか現地の人が石を投げつける場面に遭遇した。怒りがこみ上げ、怒鳴りつけた。だが自分とて雨をしのぐ傘と治療費の100ドルを渡すのが精いっぱいだった。もっとできることがあったのではないかと、後に心が痛んだ。

まずはハンセン病を知らなくては──帰国すると患者を取り巻く差別と偏見について学びを深めた。

ハンセン病とは「らい菌」に感染することで起こる病気。体の一部が変形するなどの後遺症が残ることで差別や偏見の対象とされることがあった。実際は感染力が弱く、感染しても発病することはまれだが、恐ろしい伝染病と考えられ、日本では’31年に「癩(らい)予防法」が成立。すべての患者の隔離を目指し、各地で新たな療養所ができた。

人里離れた地へ送られていく様子が偏見や差別を助長し、その目は親族にまで向けられた。家族に迷惑をかけまいと本名や戸籍を捨てたことで、亡くなっても遺骨が故郷へ帰ることすら叶わなかった人たちもいる。

1991年、杉は熊本県にある国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園を訪れた。

「ハンセン病を患うと強制的に隔離されて、一生出られなかった時代です。施設で亡くなられたかたが祀られた納骨堂に手を合わせ、歌を歌いました。でも、この程度の慰問ではだめだ──歌いながらそう感じて、次は芝居をする約束をしました。『遠山の金さん』をやりますと言うと皆さんがとても喜んでくださった。その場で抱き合い、握手を交わしました」(杉・以下同)

ようやく約束を果たせたのは5年後だった。

「設備の整った外部の施設で芝居をする案も出たけれど、『差別や偏見に遭い、つらい思いをしてここで亡くなられたかたが何千人といる。その魂を慰めるためには、この場所でなければ意味がない』と頑として譲らなかった。行き場のない恨みや怨念を、金さんが晴らしてやるんだ。そのための慰問なんだからと」

当日はトラブルの連続で何度も中断しては、初めから演じ直した。見せ場のお白洲の場面になる頃には、会場に嗚咽が響いていた。

「私も胸が詰まって『これにて一件落着』が、なかなか言えなかった。目の前のかたがたには生涯、一件落着はないのですから。やっとの思いで声をしぼり出すと、聞いたことのない拍手が湧き起こりました。銭金では決して得られない、純粋無垢な拍手をいただいた。魂が震えました」

人間の真実の拍手、涙とは何かをハンセン病の患者に教えてもらった。“生涯献身”を誓い、人生の目標が定まったと語る。