娘の文章にも“作家基準”
親と同じ資質を持つかどうかに左右される歌舞伎の一門と、置屋の継承問題。それは作家の母を持つ彼女にとって、決して人ごとではなかった。
母の美紗さんは国語教師を経て作家に転じ、紅葉が中学生だった1974年にプロデビュー。京都を主な舞台に、200に及ぶ作品を残し、『山村美紗サスペンス』として100本以上の2時間ドラマが作られた。巻き髪にドレス姿がトレードマークの華やかなイメージで「ミステリーの女王」と呼ばれた。
長女の紅葉は早稲田大学に在学中の’83年、美紗さん原作のドラマで女優デビューし、多くの山村作品に出演。母亡き後も、ドラマ、舞台を中心に活躍を続けている。
「私も母の娘じゃなかったらデビューできていなかったと思うし、すごく恵まれていると思います。周りからも幸せな人生と言われるけれど……いやいや、そうは言っても、親と比べられたりするし、親の期待にも応えられないつらさがありました」

幼稚園から小、中、高と国立の京都教育大学の附属校に通った紅葉。名門校ゆえ、周りは教育熱心な家庭ばかりの中で、作家業が忙しくなった母は娘に手が回らず、紅葉は孤独を感じることがあったそうだ。
「うちだけお弁当を作ってもらえなかったり、中学のスキー教室のときは、ほかの子のお母さんは手編みのセーターとスキー専用の暖かいズボンを用意してくれるのに、うちはずっと前に買ったアノラックと、転ぶとビショビショになるズボン。その冷たいズボンの感触がずっと残っていて、スキーには二度と行きませんでした」
幼い頃の紅葉は、頭の中で物語を空想して遊ぶのが好きな女の子だった。小学生の頃は読書感想文コンクールに入賞することがあったという。だが、母から褒められることはなく、「こんなに下手くそなの?」「ここがダメ。こうしたらいけない」と否定的な言葉ばかりが返ってきた。
「コンクールの表彰式にも、『恥ずかしいから行かない』と言って来てくれませんでした。中学生のときに詩が新聞に載ったときには、見せたら絶対けなされると思って、かといって新聞を切り抜くわけにもいかないから隠したんですけど、結局見つかってしまいました。いまから考えると入賞したんだから、そんなに才能がないわけではないのに、母からすると不満だったんです。だから書くことが嫌いになってしまいました」
文壇の重鎮である母は娘の文章に対しても“作家基準”を求めた。娘からすれば、母が自分に課すハードルは常に厳しかったという。
「母は特別運動ができたので、『どうして、そんなに走るのが遅いの?』と。料理も得意だったので、私がモタモタしていると、『もういい! 私がやる!』となる。母から何かをちゃんと教えてもらうということはありませんでした」
京都を離れ東京の大学に進んでからも、母の干渉からは逃れられなかった。
早稲田大学では、多くの作家を輩出したサークルのワセダミステリクラブに入った。だが、これは自分の意思ではなかったという。
「母が入れと言ったからです(笑い)。『ママの子供だと言わず、山村は京都に多い名前だと言って、ママの評判を聞いてきなさい』と。サークルでは、『山村美紗は人を殺しすぎる』『そんなところで殺さない』『犯行が衝動的すぎる』とか、いろいろ言われました。でも、それをそのまま母に伝えられないじゃないですか、絶対怒るから。それで、『あんまり話題に出てないけどなあ』とか言いながら、『最近はSFとか海外ものがブームみたい』って誤魔化していました。
周りはみな小説を書いていたけれど、私は読む専門を貫きました。結局、そのサークルも山村美紗の娘だとバレたのがきっかけで辞めました(笑い)」
後編記事【《山村紅葉がミステリー作家デビュー》きっかけをくれたのは映画『国宝』「執筆中はなぜか母が好んだピンクや花柄、フリフリの付いた服が好きになりました」】では、紅葉が小説を書くことになった経緯に迫る。
※女性セブン2026年7月2日号