
6月20日、歌手で俳優の美輪明宏(本名:丸山明宏)さんが、老衰で亡くなった。享年91。近年は表舞台を離れ、人知れず闘病生活を送り、生前整理も進めていたという美輪さん。公式サイトには生前に綴った直筆メッセージが掲載され《こんな世の中を 生き抜く武器は 愛の言葉しかありません この世のすべての問題を 解く鍵は愛です 愛があれば 戦争なんか起こりません》と記されていた。長きにわたり平和や愛の大切さを訴えかけてきた美輪さんの生涯を追った──(前後編の後編)
* * *
美輪さんは1935年、長崎県に生まれた。母方の実家に男児がいなかったため養子に出され、戦前の色街「丸山遊郭」で幼少期を過ごした。
長崎に原爆が投下されたのは10才のとき。目の前がマグネシウムが燃えるように激しく光り、轟音とともに大地が揺らぐ中を必死で生き延びた。終戦後、15才で上京。国立音楽大学附属高校を中退し、喫茶「銀巴里」でシャンソンを歌うようになったことが芸能界入りのきっかけとなった。
「中性的な美貌と美声が評判を呼び、常連客の三島由紀夫や江戸川乱歩、寺山修司などそうそうたる作家と面識を持ちました。歌手としては1957年のデビュー曲『メケ・メケ』や1964年の『ヨイトマケの唄』が大ヒット。タブーや偏見をおそれず、同性愛者であることもカミングアウトしています」(芸能関係者)
自らを「天草四郎の生まれ変わり」と称し、2005年から放送された『オーラの泉』(テレビ朝日系)では江原啓之氏とともにゲストの前世を導いて注目を集めた。2012年には史上最年長の77才で紅白初出場を果たしている。歌手、俳優、演出家として絶大な人気を博した美輪さんは華々しい交友関係を誇ったが、一方で私生活は孤独との闘いでもあった。
「幼い頃に母親を亡くし、戦争では多くの親族や友人を失いました。デビュー後に交際が報じられた日活のスター・赤木圭一郎さんが不慮の事故で亡くなり、三島さんが自死したときも大きなショックを受けたといいます。若い才能を見いだすことに力を入れていた美輪さんは、不器用でも魂のきれいな人が好きなんです。身寄りのない歌手や俳優を自宅に招き入れ、家族同然につきあっていた時期もありました」(美輪の知人)
銀巴里で美輪さんのステージの前座に立った歌手A氏もそのひとり。美輪さんは実の弟のようにかわいがったが、そのA氏も1990年に鬼籍に入った。
「ほかにも45才下の俳優を溺愛し、親密すぎる関係が噂になったこともあります。身長180cmの二枚目で、美輪さんは『裕ちゃん(石原裕次郎)より脚が5cm長いの』と大絶賛。自分の舞台やテレビにキャスティングして、あらゆる手を使って彼を世に出そうとしていました」(テレビ局関係者)
もっとも、その俳優も美輪さんのもとを去り、近年芸能活動はほとんど行っていなかった。近年、美輪さんの身の回りにいたのは女性のお手伝いさんと、個人事務所の社長B氏のみだったという。
「Bさんは文学座の研究生だった元俳優。美輪さんの仕事のすべてを取り仕切り、私生活もつきっきりでサポートしていたといいます」(前出・美輪の知人)
当時17才だったB氏を美輪さんが見初めたのは50年以上も前のこと。
「目鼻立ちがくっきりした主役クラスの俳優でした。普段は寡黙なのですが、舞台に立つと色気と華がある。彼の公演を毎回のように見に来ていた美輪さんは、いつしか彼を自分の付き人にして、自宅に住まわせるようになったんです」(舞台関係者)
B氏が役者を引退すると美輪さんは彼を養子として迎え入れた。その理由について、美輪さんは2013年の『週刊文春』に「ただ報いてあげたいと思うじゃないですか! 感謝です」と語り、自身の希望だったと認めている。美輪さんが全幅の信頼を置く“息子”といっていい存在だった。
「美輪さんにとってはBさんが唯一の“家族”。体力的にも長崎に還ることは難しいといい、以前は毎年のようにお参りしていた菩提寺の墓もコロナ前に改葬を済ませたといいます」(前出・美輪の知人)
その菩提寺の住職はかつてこう話していた。
「2019年頃に永代供養という形で墓じまいをされました。本当にきちんとされたかたで、長年にわたりお手紙と一緒に御仏前を送ってくださいました」
美輪さんは前述の亡くなったA氏のために1990年頃に都内の寺に墓を建てている。周囲には「自分もそこに入る」と語っていたという。
公式サイトでは冒頭のメッセージをこう説明している。
《世界各地で戦争や災害が起き、地震や洪水など大きな災害も後を絶ちません。そのたびに多くの尊い命が理不尽に奪われる悲しい世の中になってしまいました。日本国内でも闇バイト、通り魔、SNSによる誹謗中傷など、平気で人を殺めたり、傷付けたりする事件が増えているようです。美輪の願いは、この世からあらゆる差別、偏見をなくし、すべての人が平和で明るく楽しく生きていける共生社会の実現でした。その願いを込めたメッセージです。本人が常々口にしていた言葉です》
多くの人々に命や平和、そして愛の尊さを教えてくれた生涯だった。