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【追悼・草間彌生さん】「女が仕事の上で男と寝たらオシマイ」自伝で明かした苦悩、世界を魅了した「水玉の女王」が貫いた「孤独と情熱」

「世界のKUSAMA」として人気を博し、海外でも何度も個展を開催した(写真/共同通信社 )
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 カラフルな色使いと水玉模様を巧みに操り、一度見たら忘れられない作品を世に送り出し続けた草間彌生さん。独創的かつポップな作風の裏には、知られざる苦悩が隠されていた。不世出の芸術家が過ごした97年に迫る。【前後編の前編】

根底にあった嫌悪感

 愛を描き続けた生涯だった。8月14日、トレードマークの水玉模様のアート作品で知られる前衛芸術家の草間彌生さんが、多臓器不全のため都内の病院で亡くなった。97才だった。

 美術を中心に小説や詩など多方面で活躍し、2016年に文化勲章を受章。2021年にはオークションで売れた作品の総額が1.7億ドル(約270億円)にのぼり、その年、世界のアーティスト別売上トップ10に女性として初めて名を連ねた、世界屈指の芸術家である。だが、その生涯は波乱に満ちていた。

 1929年、草間さんは長野県松本市で種苗業を営む裕福な旧家に生まれた。

「名家に育ち厳格だった母と、婿養子で家庭を顧みず放蕩の限りを尽くす父の諍いが絶えなかった。そんな家庭環境も影響し、草間さんは10才頃から視界が水玉や網の目で埋まる幻覚、花が話しかけてくる幻聴に苦しむようになります。のちに統合失調症と診断されました」(美術関係者)

 怖くてたまらない。だから、見えたものを片っ端からスケッチブックに描きとめた。紙の上に閉じ込めてしまえば、恐怖は少しだけ小さくなる。絵は生き延びるための手段だった。

 終戦の年の1945年には、16才で全信州美術展に入選。1948年に女学校を卒業すると、親から遠ざかるように京都の美術工芸学校へ編入し、日本画を学んだ。

「当時の日本の画壇は、古いしきたりと人間関係がものをいう世界。息苦しさを感じた草間さんは、自由の国・アメリカ、なかでもアートの最先端だったニューヨークに行くことを夢見るようになりました」(前出・美術関係者)

ニューヨーク時代の草間さん。立体作品も数多く手がけた(1967年、写真/アフロ )
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 1957年、草間さんは渡米する。旅立つ前、「もっといい作品をつくるために」と、それまで描きためた数百枚の絵を燃やした。美術に理解のなかった母からは「お金を出してやる代わりに、二度とうちの敷居はまたがないで」と告げられ、勘当同然の出発だったという。持参したお金はすぐ底をついた。ニューヨークでは、食うにも困る極貧生活。それでも、誰にも文句を言われずに絵が描ける。それが何よりうれしかった。

「草間さんは、自身の抱える恐怖感やコンプレックスをそのまま表現の対象にしました。1959年、黒地に白い網目を無限に描いた『無限の網』が個展で絶賛され、1960年代には“前衛の女王”と呼ばれるまでになります。突然服を脱いで裸になった人々の体に水玉のペイントを施す過激なパフォーマンス“ハプニング”も、根底にあったのは性に対する嫌悪感だったといいます」(前出・美術関係者)

 作品では性を大胆に扱いながら、彼女自身は一線を越えなかった。2002年に出版した自伝『無限の網』(作品社)には、

《私は、女が仕事の上で男と寝たらオシマイだと思ってずっとやってきた》

《寝ると、女は武器を失う。寝なければ、それは10年も15年も使えるのだ》

 と綴っている。実際、互いの芸術を深く尊重し合った26才年上のアメリカ人美術家、ジョゼフ・コーネル氏とは、10年に及ぶパートナーだったが肉体関係はなかったという。

 1972年、コーネル氏が亡くなると、草間さんは心身のバランスを崩し、翌1973年に帰国した。

「アメリカでは一定の評価を得ていた草間さんですが、当時の日本では“裸ハプニングの女王”“国辱ものの女性”とイロモノ扱い。精神的な不調は改善せず、1977年からは東京・新宿の精神科病院の一室を“家”と呼び、生活の拠点に。道路を挟んだ向かいにアトリエを構え、以来亡くなるまでの約40年、その往復だけで膨大な作品を生み出しますが、この頃、名声はすっかり下火になっていました」(前出・美術関係者)

※女性セブン2026年9月17日号

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