【世界で闘う日本の女性たち】ICC赤根智子所長、前衛芸術家・草間彌生さん、音楽評論家・湯川れい子さん…国境を越えて道を切り開いてきた女性たちの「哲学」と「信念」
自分が認められないことに対する怒りを原動力に
自由に海外を旅行できなかった時代に単身で海を渡り、トレードマークの水玉模様で世界に誇る現代アーティストになったのは、8月14日に亡くなった前衛芸術家の草間彌生さん(享年97)だ。
長野県松本市の名家に生まれるも厳格な母と放蕩な父との壮絶なけんかが絶えず、草間さんは精神的な苦痛によって10才頃から水玉模様や網の目で視界が埋まる幻覚や、花が話しかけてくる幻聴に悩まされるようになった。恐怖から身を守るため、目に見えたものをスケッチブックにひたすらに描き続けた。
京都の美術工芸学校に進んで画家を志すも、因習としがらみだらけで女性への偏見が根深い日本の芸術界に嫌気が差し、アートの最先端・米ニューヨークに行くことを夢見た。当時の切羽詰まった心境を、2002年に出版した自伝『無限の網』にこう綴る。
《環境はあまりにも保守的で、とにかく一日も早く外へ出ていくことが夢でもあり、闘いだった》
1957年に両親の反対を押し切って渡米し、貧困生活のなかすべてを創作活動に注いだ。草間さんのドキュメンタリー映画『≒草間彌生 わたし大好き』(2008年)を手がけた映画監督の松本貴子さんが語る。

「彼女がよく話していたのは、『自分は自らの力一つで打って出て頑張った』ということ。海外で日本の女性が名を成して活躍することはまれで、オノ・ヨーコとジョン・レノンのようにみんな夫やパートナーがいました。
一方、草間さんは『自分は違う』と語り、芸術を極めるんだという意志がとても強かった。特にニューヨークでは“草間はすごい”と認められるために人のマネをするのではなく、常にまだ誰も見たことのない新しい作品を生み出して、マスコミに取り上げられようと貪欲に創作活動に取り組んでいました」
セックスを大胆に扱う作風や、裸の男女に水玉のペイントを施すパフォーマンス「ハプニング」などが話題となり、1960年代には「前衛の女王」と称された。しかし、日本では「裸ハプニングの女王」と揶揄され、正当な評価は受けられなかった。こうした閉鎖的な声に対する怒りも、草間さんが魂を燃やす原動力になったと松本さんは続ける。
「とにかく自分が認められないことに対する怒りがあった。日本はアートに対する理解力はもちろん、政治などさまざまな分野で世界とは100年も200年も遅れていると何度も口にしていました」
1973年に帰国するも、精神的な不調から東京にある精神科の病院を生活の拠点にして、近くのアトリエで作品と向き合った。
「帰国後は心の傷を癒すためのアートに取り組み、内面を見つめて作った作品が素敵だった。私が知り合った1995年頃の草間さんはまだ世に知られておらず、『いまはダメかもしれないけど、死後には必ず認められる』とよく話していました。
徐々に人気が浸透して芸術に関心がない人にも“水玉の人”と知られるようになり、うれしかったはずです」(松本さん・以下同)
小柄ながら表舞台に立つときは強烈な目力とともにオーラをまとった草間さん。一方で、映画の撮影中は絵を描きながら笑顔でスタッフと女子トークをするチャーミングな一面があったという。
「草間さんは生身の人間としてではなく、アーティストとしての“草間彌生”を作り上げた。生前作った最高の“作品”は彼女自身なんだと思います」
世界を相手にするときはいつも日本を背負っていた
草間さんが夢を追って渡米してから7年後、世界のビッグスターたちと交流し、日本に洋楽を広めた戦後女性初の音楽評論家である湯川れい子さんが海を渡った。
「私はエルヴィスをはじめ70年間、推し活をしているんです(笑い)」
1936年に東京都目黒で生まれて小学4年生で敗戦を迎えた湯川さんは、新旧の社会常識がぶつかり合う世代に育った。
「明治の人間だった母は何事にも耐え忍ぶ世代。私は旧弊の社会常識に初めて逆らった世代でした。母が勝手に進めた縁談に『そんなものは生きていくための永久売春だ』と反発して、頬を打たれたこともありました」(湯川さん・以下同)
1960年にジャズ評論家として執筆活動を始めるも男社会だった音楽業界の風当たりは強く、「湯川にはパトロンがいる」との怪文書が出回ったこともあった。悔しさを抱える彼女の心の支えはエルヴィス・プレスリーだった。
「20才のときに米軍放送で流れた『ハートブレイク・ホテル』を聴き、ぶわっと鳥肌が立った。それからは“この人に絶対会いたい”とアメリカへの思いが膨らんでいきました」

東京五輪が開催された1964年、念願かなって湯川さんはアメリカに旅立つ。ちょうど観光目的の海外渡航が自由化された年だった。
「向こうに知り合いなんてもちろんいない。“鬼が出るか蛇が出るか”の未知の世界です。母は本当に心配していましたが、何が何でもエルヴィスに会いたい。その一心で飛行機に飛び乗りました。
会うまでに9年もかかりましたが、諦めたことは一度もありません。念願が叶い、エルヴィスに会えたうえ、最終的には私の結婚のサインの証人になるほど深い交流ができた」
ビートルズ、マイケル・ジャクソンなど著名なミュージシャンやアーティストにも精力的にインタビューを続けた。
「会いたい、話したい、知りたいという自分のなかから湧き出てくる欲望が私のエネルギーです。当時の日本はちっぽけな敗戦国で、海外の人からなめられるところもあったけど、私は逆に小国から出てきて頑張っているのだからすごいだろうと胸を張った。世界を相手にするときはいつも日本を背負っていました」
憧れのスターを追い、ひとりで海を渡ったことが、湯川さんが道を切り開く出発点になったのだ。
(後編に続く)
※女性セブン2026年9月24日号