長く生きていれば、つらいことも多々あります。乗り越える方法は人それぞれです。小説家で慶應義塾大学文学部教授の荻野アンナさん(64歳)は、自身のうつやがん、両親の介護を乗り越えた原動力の1つに、趣味である落語の考え方があったと話してくれました。
“やりなさいよ”で高座にあがることに
母親が落語好きで子守歌代わりに聞いていたこともあり、荻野さんは元々お笑いが好きだったそうです。大道芸にも関心があり、横浜の野毛町で大道芝居に関わっていました。
「その人脈で、11代目金原亭馬生(きんげんてい・ばしょう)師匠の一門会を横浜で始めるにあたって、新作落語の脚本でお声がかかったんです。師匠に会ってみると、“あなた、やりなさいよ”と言われちゃって。その場で“金原亭駒ん奈”という芸名も決まり、気がつくと野毛(神奈川県横浜市)の高座でしゃべっていました。
落語に出てくる人物は、人生ついでに生きているタイプが多い。与太郎さんがよく出てきますが、ああいういい加減な人間が大手を振ってまかり通るのが落語の面白いところです」(荻野さん・以下同)
事態が深刻でもそこにはユーモアがある
与太郎とは複数の落語の演目に登場する人物で、失敗ばかりする「間抜け者」の代名詞。
「今の世知辛い世間では、なかなか与太郎さん的な人は居場所がないと思うんですね。ところが落語の世界だとヒーローになれるわけです。どんなに事態が深刻でも、ひっくり返すとユーモアが漂っている。それでもどっこい生きていく、というのが作品からにじみ出るわけで、基本的に元気をもらえるジャンルです」
落語では話がカラッと仕上がる
「例えば代表的な演目は『厩火事(うまやかじ)』。年上女房が髪結いさんをしているのですが、年下の亭主が自分のことを本当に思ってくれているかわからないので、彼の愛情を試すんです。わざと亭主が大事にしている瀬戸物を割ったとき、女房を心配するか、割れた瀬戸物を心配するか。亭主は“おまえ、指は大丈夫か”と女房のことを気遣います。
女房が“私が大事なのね”と喜んだ矢先、“おまえの指でも怪我したら、昼間から酒飲んで結構な暮らしができない”って。
笑っちゃいますけど、ヒロインの立場になったら、結局どうすりゃいいのって話ですよね。旦那は本気で自分のことを思ってくれているわけじゃないけど、捨てるきっかけになるほどひどい奴でもない。これを小説にすると深刻になりますけど、落語ではカラッと仕上がるんです」
落語のリズムで文章がキビキビと変化
荻野さんが披露した初めての演目は、5分ほどの『売り声』でした。ゴボウ売り、イワシ売りなど、いろいろな物売りが、売るときに工夫を凝らして客を呼ぶのを、面白おかしく伝える小話です。
「初心者から高座にあがらせていただいて、ありがたい体験したが、翌日は起き上がれないほど疲れました。私は教師もやっていますから、講義の90分はいくらでもしゃべれますが、高座は5分でくたびれました」
「隣りの空き地に囲いができた…」も
落語のリズムが体に浸透してくると、その影響で小説の文章が変化したそうです。
「文章がキビキビしてきました。たとえば、“隣りの空き地に囲いができたってね”“へえ(塀)”という基本の小話がありますね。これが饒舌だと師匠はおっしゃるんです。“隣りの空き地”と言ってしまうと、聞いている人が“自分宅の隣りには空き地がない”と考え始めてしまう。だから聞いている人の想像力を話からそらさないために、“隣り”をつけずに“空き地に囲いができたってね”とする。
こう考えていくと、とても簡潔な文章になるんです。簡潔に済ませるところは簡潔に。でも『寿限無』のように長ったらしいものは長ったらしくメリハリをつける。それは小説を書くときにもいかされています」
落語の考え方を知って精神的にタフに
落語のような伝統芸能は、難しそうというイメージがあるかもしれません。しかし荻野さんは、どんな人でも楽しめるジャンルだと語ります。
「落語は大衆のための芸能として生まれました。演者がたった1人で、あらゆる人物やシチュエーションを扇子と手ぬぐいだけで演じ分けてしまう。だから人の想像力をかき立ててくれる素晴らしいエンタメなんです。近年はスマホやパソコンなど、娯楽は画面ごしになりがちですから、生で見て新しい刺激を入れてほしい。
私も師匠からは古典落語を教えていただきましたが、自分が演じるときには好きにしなさいと言われていて、“謎の外国人”をよく登場させます。たとえば『道具屋』という話があって、方言をしゃべる面白いお客が来るという場面で、方言ではなく、謎のカタコト日本語をしゃべるフランス人が登場するんです。そういうのを入れるとお客さんにウケてもらえます(笑い)。
いまや日本だけではなく、海外のかたでも落語をする人がいます。だから今後はインターナショナルに広がっていくのかなと思います。落語で博士論文を書いたフランス人もいるんですよ」
まずはテレビやCDで触れてみる
落語の入門としては、テレビやCDで話を聞いてほしいと荻野さんは言います。そして胸に響くようであれば、寄席に足を運んでみてはいかがでしょうか。楽しいだけではなく、心が強くなるかもしれません。
「落語はどんなに厳しい状況でも、ひっくりかえして笑いに変える発想を学びますから、精神的にタフになります。気の持ち方を変えれば別の受け止め方ができるわけです。たとえば、私は10年前に大腸がんになりました。早速、“ガーン”と心の中で変換しました」
40歳の頃から始まった父親の介護から、事実婚のパートナー、母親の3人を看取るまで、約20年間介護を続けた荻野さんの言葉からは、元気と強さを感じました。
この人に聞きました:小説家・荻野アンナさん
1956年11月7日生まれ。神奈川県出身。1991年『背負い水』で第105回芥川賞受賞。2007年フランス教育功労賞シュヴァリエ叙勲。慶應義塾大学文学部教授。2005年に落語家の第11代金原亭馬生に弟子入り。2009年以降、金原亭駒ん奈として高座に上がっている。近著に『老婦人マリアンヌ鈴木の部屋』(朝日新聞出版)がある。
取材・文/小山内麗香
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