
2024年4月12日、天皇皇后両陛下は能登半島地震で被災者を見舞うため、石川県穴水町、能登町を訪問された。今回、能登半島地震の被災地訪問は2回目で、両陛下は3月22日にも同県の輪島市と珠洲市で被災者を見舞われている。前回と同様、現地の負担を考慮し、昼食を持参し、日帰りのご訪問だった。
機材トラブルでおよそ1時間遅れの出発
天皇皇后両陛下は、午前10時半すぎ、特別機で羽田空港を出発。機材トラブルが判明し、予備機に乗り換えられたため、およそ1時間遅れでの出発となった。
昨年、2023年10月に石川県へ訪問された際にも、特別機が離陸前に不具合が起こり、急きょ、予備機に乗り換えられている。当時、無事に国民文化祭と全国障害者芸術・文化祭の開会式に出席できた両陛下は、トラブルに対し、尽力した関係者を気遣われていたという。
今回、特別機の機材トラブルの影響で、遅れがあったが、昼食の時間や移動の間の休憩時間などを短縮し、予定していたすべての場所に訪問されたという。ハードスケジュールをこなされた両陛下の1人でも多くの人を励ましたいというお気持ちが伝わる。


穴水町の唯一の商店街を視察 雅子さまが地元の人に声をかけられる場面も
午前11時半ごろ、輪島市の能登空港に到着された両陛下は、出迎えた馳浩知事などの関係者とあいさつを交わされ、自衛隊のヘリコプターで穴水町へ移動された。ヘリコプターを降りられたあと、吉村光輝町長と挨拶を交わされ、3月に訪問されたときと同じように、職員と同じマイクロバスで穴水町へ移動された。


穴水町商店街に到着された両陛下は、被災状況を視察された。商店街は40軒ほどの店舗があったが、多くの建物が倒壊し、現在、半分程度しか営業ができていないという。「ここが穴水町の唯一の商店街として昔から栄えたところでございます」などと説明する吉村町長の話を何度も頷きながら、聞かれた。
商店街を去り際に、雅子さまが近くの美容室のスタッフに「お体に気をつけてください」と声をかけられた場面もあったという。

避難所でお見舞い 災害対応に当たった職員へ労いのお言葉も
続いて、29世帯46人が避難生活を送っている「さわやか交流館プルート」を訪問された両陛下は、被災者と目線の高さを合わせるため、腰を落とし、一人ずつと会話をされた。おふたりは「どちらにいらっしゃったんですか」「大変でしたね」などと声をかけられたという。

その後、災害対応に当たった、消防団員や医療従事者に「ご自身の被災は?」「みなさんお疲れもあるでしょう」などと気遣われていた。

16人が犠牲になった土砂崩れ現場に向かって黙祷
穴水町の港も視察された両陛下。災害で出た瓦礫などのゴミについて、天皇陛下が「ゴミの総量は?」と尋ね、町長が「町の90年です」などと説明を受けられた。そして、16人が犠牲になった土砂崩れの現場、由比ヶ丘地区が港の向こう側にあり、その方向に向かって黙祷をされた。



穴水町は能登半島地震で震度6強を記録し、20人が亡くなり6000棟余りの建物が被害を受けている。20人のうち、小学生2人を含む16人はこの土砂崩れの犠牲となった。
能登町の避難所へ 約50年ぶりに再会した被災者と交流も
ヘリコプターで災害関連死の疑いを含む8人が亡くなり、9000棟の建物が被害を受けた能登町に移動された両陛下は、出迎えた大森凡世町長と挨拶を交わされたあと、43人が避難生活を送っている松波中学校をご訪問。



1975年、学習院高等科時代に能登を訪問されていた天皇陛下。懇談された被災者の中に、当時の陛下と交流したという女性と再会した場面も。
女性は、「役所に勤めていたおかげで、陛下に50年前にお会いして『本当に懐かしいです』とおっしゃっていただいた」とコメントした。



4.7メートルの津波被害を受けた白丸地区を視察
午後5時すぎ、石川県内で最も高い4.7メートルの津波が観測され、住宅が流されるなど津波被害が大きかった白丸地区で、大森凡世町長の説明を受けながら被災状況を視察された両陛下。倒壊した家屋に向かって、深く頭を下げ、黙祷をささげられた。



前回のように現地への負担を考慮しながらも、タイトなスケジュールの中、二度目の被災地ご訪問を終えられた天皇皇后両陛下。今回もおふたりの優しいお気持ち、お言葉に多くの人が元気づけられたことだろう。


2024年3月22日、能登半島地震で甚大な被害を受けた被災者を見舞うため、石川県の輪島市と珠洲市を訪問された天皇皇后両陛下。このときのご訪問では、被災地に負担をかけないように、さまざまなご配慮を見せられた。
被災者の状況をふまえて慎重に日程をご検討
2024年1月11日、宮内庁の西村泰彦長官が会見で、天皇皇后両陛下の被災地ご訪問について「現地の状況を見極めつつ、ご意向も伺いながら現地としっかり調整をしていきたい」と明かしている。翌月の2月、天皇陛下が会見された際にも、現地入りされる意向を示されていた。
「被災地にお見舞いに伺うことについては、私としては、現地の復旧の状況を見つつ、被災者の皆さんのお気持ちや、被災自治体を始めとする関係者の考えを伺いながら、訪問できるようになりましたら、雅子と共に被災地へのお見舞いができればと考えております」
被災地に向かわれたいというお気持ちがあった両陛下。地震発生直後に訪問されなかったのは、現地の負担を考え、ご訪問の日程を慎重に検討されたようだ。

天皇陛下は同会見で、能登半島地震について触れられた際、2023年10月に石川県を訪問されたことを振り返られた。
「年明けから間もない今年の元日の夕方に発生した能登半島地震は、お正月に家族で集まっていた多くの家庭を襲い、大勢の方が亡くなり、また、けがをされたり、住まいを無くされたりしました。
今回の地震に見舞われた能登地域は、雅子も私も、それぞれ学生時代に訪れて、思い出深く思ってきた地域であるとともに、昨年10月に、二人でそろって金沢市を訪問し、県民の皆さんに温かく迎えていただいたことが特に心に残っており、その石川県において、多くの方が犠牲となられ、今なお安否が不明の方がいらっしゃることや、避難を余儀なくされている方が多いことに深く心を痛めております。亡くなられた方々に心から哀悼の意を表しますとともに、御遺族と被災された方々に心からお見舞いをお伝えいたします」




























現地の負担にならないよう、職員と同じマイクロバスで移動
石川県に向かわれた当日、羽田空港から特別機で輪島市の能登空港に到着された天皇皇后両陛下。馳浩知事から被災状況の説明を受けられた後、ヘリコプターで輪島市内の航空自衛隊基地へ到着された。その後、マイクロバスに乗り換え、甚大な被害を受けた輪島朝市に向かわれた。



現地の負担にならないため、日帰りのスケジュール、移動には職員らと同じマイクロバスに乗車されたほか、食事も持参。着用されたコートを脱いだ際は自身で持たれるなど、現地や周りの職員になるべく負担をかけない配慮を見せられた。






輪島朝市では、坂口茂輪島市長の説明を受けながら、被災が大きかった地域をご視察。両陛下は地震・大規模の火災で多くが失われた場所に向かって深く長い拝礼をされた。


被災者のお見舞いへ 熱心に話を聞かれた両陛下
石川県輪島市の避難所「ふれあい健康センター」では、被災者の前で腰を落とし、一人ずつに声をかけられ、被災者の話に、何度もうなずきながら、熱心に耳を傾けられていた。
天皇皇后両陛下は「けがとかは大丈夫ですか」「お体をお大事にしてください」などと声をかけられた。雅子さまは「こちらもまだ水が使えないですか?」と質問をされ、避難生活を気遣われていた。


被災者のお見舞いを終えられた後は、災害対応に尽力した関係者らの話を聞き、ねぎらいの言葉をかけられた。

上皇皇后両陛下から受け継がれた“スタイル”と令和流のご配慮
津波で広い範囲が浸水した珠洲市にヘリで移動した天皇皇后両陛下は、泉谷満寿裕市長に出迎えられ、その後マイクロバスで、避難所となっている緑丘中学校を訪問された。


輪島市の避難所でのお見舞いと同じように、相手と同じ目線の高さになるよう、被災者の前に座られた両陛下。かつて上皇皇后両陛下も避難所で被災者を励まされる際に床に膝をついていた。また今回の日帰りという点も上皇ご夫妻の姿と重なる。2016年の熊本地震で日帰りというハードスケジュールのなか、上皇ご夫妻(当時は天皇皇后両陛下)も、被災地を訪問されている。









その後、津波被害が大きかった飯田港をご視察。泉谷満寿裕市長からの説明を受け、被害状況を視察された両陛下は、2度、海に向かって、異なる方角に深く頭を下げられた。




今回の天皇皇后陛下のご訪問は、震災直後、心を傷められながらも、現地のことを考え、時期を慎重に検討され、優しさ溢れる“令和流”のお見舞いとなった。


天皇皇后両陛下はこれまでも大規模な災害があった際に、被災地を訪問され、被災者を勇気づけてこられた。そうしたお気遣い溢れる姿も振り返る。
阪神・淡路大震災15周年追悼式典で2年ぶりの宿泊の地方公務
1995年、中東3か国を訪問された天皇皇后両陛下(当時は皇太子ご夫妻)。日本を出発する3日前、1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生したため、海外訪問の日程を短縮。同年12月の会見で雅子さまが、被災地の様子について感想を述べられている。

「今年は、年初の阪神・淡路大震災で、多くの尊い命が奪われ、多くの人々が計り知れない悲しみ、苦しみを味わわれたことを思い、また、その後にも、痛ましい社会的事件が起きるなど、深く心の痛む一年でした。
その一方で、阪神・淡路大震災の被災地では、被災された方々が互いに励まし合い、助け合いながら大きな困難を乗り越えていこうとされる姿、そして、ボランティアの方たちや海外からの援助を含め、被災地の救援・復興のために尽くそうとされる多くの人々の善意を知り、強く感銘を受けました」
かつて、上皇ご夫妻が被災地を訪問された際には、被災者と目線の高さを合わせてお話しするために、床に膝をつき、話に耳を傾けられていた。両陛下も上皇ご夫妻のスタイルを受け継ぎ、避難所で被災者を励まされる際には正座をされている。

2010年、神戸市の兵庫県公館で行われた「1.17のつどい 阪神・淡路大震災15周年追悼式典」に出席された天皇皇后両陛下。同年12月、雅子さまは被災者へのお気持ちを公表された。
「この1月には、阪神・淡路大震災15周年追悼式典に出席するため、神戸市を訪れる機会がありました。その折りには、15年前の大震災当時の大変な状況やその後の復興の道のりを思い起こし、深い感慨に包まれました。同時に、今なお癒えることのない傷に苦しんでおられる方々のことを思うと、とても心が痛みます。阪神・淡路大震災をはじめ様々な災害で被災されたり、あるいは、その他の状況においてご苦労を重ねておられる方々のことを心にとどめ、国民の皆様の幸せをいつもお祈りしていたいと思います」
追悼式典のため、神戸へ訪問された雅子さま。宿泊を伴う地方公務は2年ぶりだった。療養中のなか出席されたのは、犠牲者への追悼、そして遺族への強いお気持ちがあったことがうかがえる。




東日本大震災で被災3県へ 被災者の手を握られ励まされた雅子さま
東日本大震災の発生から約1か月後、2011年4月6日に福島県などから避難してきた人々が身を寄せる東京・調布市の味の素スタジアムを訪問され、同月の5月には埼玉県の三郷市立瑞沼市民センターで被災者をお見舞いされた天皇皇后両陛下(当時は皇太子ご夫妻)。



同年6月、被災地の宮城県岩沼市へ訪ねられた。津波の影響で家などが流された被災地で、おふたりが並ばれ、黙礼をされた。



避難所の山下小学校体育館で、雅子さまが涙を流す被災者女性の手を握られ励まされたり、7月の福島県郡山市では、雅子さまが涙ぐまれながら、被災者の肩に手を添えられる場面もあった。




震災の翌年、2012年2月の会見で、避難所と被災地を訪問された際の様子を振り返られた天皇陛下。
「この1年、東日本大震災を始めとして、国内外で大きな災害が相次いで起こりました。2万人近くの死者と行方不明者を出した未曽有の震災からもうすぐ1年になりますが、この1年、震災のことは常に頭から離れませんでした。
東京都内や埼玉県の避難所を訪れたのに続いて、宮城、福島、岩手の3県を雅子と共に訪れ、被災された方々をお見舞いし、お話を伺ったことや、地方訪問の機会に、その地に避難された方々とお会いしたり、被災地から都内に移り、元気に学ぶ小学生とお話ししたりしたことを一つ一つ思い出します。
震災で家族や親しい人を亡くされた方々の悲しみはいかばかりかと思いますし、今なお、震災や原子力発電所の事故などで故郷を離れたり、被災地で不自由な暮らしをされたりしておられる方々のことを考えると心が痛みます。
そうした困難な状況下にあっても、被災された方々が力を合わせて復興に向け歩んでおられることは、大変心強く思います。一例を挙げれば、昨年8月に岩手県の大船渡市にお見舞いに伺った際に、仮設住宅での暮らしの中で、住民の方々が自治会などの組織を作り、力を合わせ、困難を乗り越えながら前に進んでいこうとされる姿に感銘を受けたことを思い出します」
被災地の状態に心を痛められながらも、お見舞いを続けられた両陛下。慰めだけはなく、被災者に前向きなお言葉も送られていた。
東日本大震災の被災者らとオンラインでのご交流
新型コロナウイルスの影響で、外出を控えられるようになり、被災地への訪問が難しくなった時期には、オンラインで東日本大震災復興状況について、視察された。2021年3月4日は岩手県、17日は宮城県、4月28日は福島県の被災者らとご懇談。
宮城県気仙沼市で震災を語り継ぐ活動をしている当時中学3年生の女子生徒に、天皇陛下は「語り部になるのは本当に勇気がいったんではないでしょうか」とねぎらわれた。山元町の当時78歳の女性は、2011年6月、避難所で両陛下と懇談しており、画面越しの“再会”となった。
雅子さまは同年のお誕生日のご感想で、オンラインのご交流について触れられている。
「東日本大震災の発生から今年で10年になりました。この10年を振り返り、深い悲しみを新たにされた方も多くおられたのではないかと思います。私自身も地震発生当時の大変な状況を思い起こす機会が多くありました。
また、震災後10年に当たり、岩手県、宮城県、福島県の復興状況をオンラインで見せていただき、被災された方々とお話しする機会を得ましたが、各地で復興が進み、生活の基盤が整いつつある中にあって、今もなお生活を再建できずにいる方や、癒えることのない心の傷を抱えた方々もおられることに心が痛みます。今後とも、陛下と御一緒に被災地の方々に心を寄せていきたいと思っております」






即位後初めて東日本大震災の被災地を訪問
2023年6月3日、天皇皇后両陛下は「第73回全国植樹祭」に出席されるため、7年ぶりに岩手県を訪問された。即位後、初めての東日本大震災の被災地ご訪問でもあった。




「第73回全国植樹祭」に出席される前日に、東日本大震災の追悼・祈念施設で供花、拝礼され、津波で残った「奇跡の一本松」を視察された。





同年の12月、雅子さまはお誕生日のご感想で岩手県ご訪問について触れ、「岩手県の陸前高田市や大船渡市、釜石市では、被災地の皆さんが、幾多の困難を抱えながらも弛たゆみない努力を続けてこられた姿に心を打たれました。被災地が今後、真の復興を遂げていくことを心から願うとともに、引き続き被災地に心を寄せていきたいという思いを新たにいたしました」とお気持ちを公表された。
2019年2月、皇太子として最後の誕生日の会見で、以下のように述べられている。
「私は、様々な行事の機会に、あるいは被災地の視察として、各地を訪問してまいりましたが、国民の中に入り、国民に少しでも寄り添うことを目指し、行く先々では多くの方々のお話を聴き、皆さんの置かれている状況や関心、皇室が国民のために何をすべきかなどについて、的確に感じ取れるように、国民と接する機会を広く持つよう心掛けてまいりました。こうしたことは、今後とも自分の活動の大きな柱として大切にしていきたいと思います」
そのお言葉の通り、避難所を訪問されたり、震災から数年経過した後も被災地を気にかけられ、コロナ禍ではオンラインを活用されるなど、雅子さまとともに被災者に寄り添い続けられている天皇陛下。その姿に元気を取り戻された被災者も多くいることだろう。
上皇陛下から受け継がれたお気持ち
天皇陛下の一人でも多くの被災者を励ましたいというお気持ちは、上皇陛下から受け継がれている。
東日本大震災が発生した当時、天皇陛下だった上皇陛下は、美智子さまとともに東京武道館、埼玉県の旧騎西高等学校、千葉県旭市、茨城県北茨城市を訪問され、その後、被災3県を回られている。皇陛下は77歳、美智子さまは76歳という高齢にも関わらず、3月30日の東京武道館から5月11日の福島県相馬市のご訪問まで、7週連続でお見舞いに向かわれた。


2018年の会見で天皇陛下は、2016年に公表された上皇陛下の言葉を引用し、以下のお言葉を述べられた。
「陛下がおことばの中で述べられたように、『時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと』が大切であり、私も雅子と共に行った被災地視察や地方訪問の折には、なるべく多くの国民の皆さんとお話しができればと思い、これらの機会を大切にしてまいりました。そして、今後とも、そのように心掛けていきたいと思います」
●《能登半島地震の被災地訪問のご意向》天皇皇后両陛下がこれまで震災の際に見せられてきた被災者に寄り添われるお姿
●《能登半島地震・石川県ご訪問》「国民に少しでも寄り添うことを目指す」天皇皇后両陛下の思い 東日本大震災では被災者とオンラインでご交流も