シャイな野球少年だった山崎さんがミュージカルと出会い、変声期の挫折、留学先での差別やいじめを乗り越え、自ら道を切り開いてきたと語った前編。後編ではヤングケアラーだった高校時代など、数々の困難に直面しても挑戦の歩みを止めなかった熱い思いと、見据える未来について話してくれました。

アンミカ:前編は、留学先のアメリカで受けた差別の経験をダンスで乗り越えたところまでうかがいました。帰国後は、ミュージカルの道に邁進する日々でしたか?
山崎:それがそうならずでして。振り返れば10代は人生でいちばんいろんなことを乗り越えた時期で、鍛えられましたね。
アンミカ:あれ以上の苦労がまだあった!?
山崎:父は仕事で海外にいる期間も長く、父方の祖父母の介護は母がやっていましたが精神的に限界がきていました。そんな母を見て、「ぼくはアメリカで強くなったから任せて」と伝えて、母には田舎に戻ってもらい、介護を担うことになりました。
アンミカ:介護から距離を置いてもらい、自分が代わるという決断は、簡単なことではありません。お父さまやご兄弟と一緒になされたんですか?
山崎:父は北海道に転勤していて、長男と次男は海外の大学、弟は甲子園を目指して香川県の強豪校で寮生活と、バラバラだったんです。
アンミカ:助け合うのは物理的に厳しかったんですね。とはいえ、山崎さんも留学から帰ってきたばかりの高校生でしょう。
山崎:そうですね。右半身不随の祖母と、言語と歩行が不自由になった祖父は2人とも要介護の度合いが重かったので、正直言って3人暮らしの日々は大変でした。朝食を作って、トイレの介助をしたらヘルパーさんと交代して、ぼくは高校に。夜はヘルパーさんが作り置きしてくださった夕食を3人で食べて、その後お風呂の手伝いをして、という毎日でした。
アンミカ:いまでいうヤングケアラーのような生活をお過ごしだったなんて。初めて知りました。
山崎:当時はそういう言葉がなかったですが、そうですね。ただ、親が10年以上苦労しているのを見てきて、自分で決断したことなので、誰が悪いとかそういうことではないんです。
アンミカ:私も両親の介護を経験しましたが、年子の5人きょうだいで人手が多かったからなんとか。入浴の介助はプロでも大変なのに、高校生ひとりでしていたなんて頭が下がります。
山崎:体力もしんどかったですが、祖父母ともにだんだんと孫と認識できなくなってきて、介護をしていても「ありがとう」という言葉が日に日に減っていき、作ったご飯を拒否されるようになっていったのはつらかったですね。
アンミカ:人生経験を積んでからの介護でも大変なのに、高校生のうちに介護と向き合うのはおつらかったでしょう。
山崎:親友たちの存在に助けられました。しょっちゅう家に来てくれて、手伝ってくれたり笑わせてくれたり。彼らが乗り越える元気をくれましたね。
アンミカ:いまヤングケアラーは社会問題にもなっています。山崎さんはご経験から、どんなことが課題だと感じられましたか?
山崎:ヤングケアラーの子は自分の置かれている環境に対して自覚がないんです。人生の流れで自然に起きてしまっていることとして受け入れてしまうので、ヘルプを求めるという発想もない。
アンミカ:ラジオの人生相談にヤングケアラーの子が「自分の力が足りない」と悩みを寄せてくれたことがありました。「充分やっているから、助けを求めていいんだよ」と返したら、「助けてもらってもいいんだ」と気づいてくれました。
山崎:そうやって言われるだけでもずいぶん救われると思います。ぼくも祖父母を亡くしたとき、もっとできたのではと自分を責めましたから。ヤングケアラーの子たちが、自分はひとりじゃないと気づいて、孤独にならないでほしいなと思います。

夢をかなえた20代、そしてまた苦難…
アンミカ:介護の日々を終え、輝かしい活躍をされている姿は同じ境遇のかたがたにとって希望の光になると思います。過酷な環境の中で舞台に立つ夢をどう形にされましたか?
山崎:介護で行き詰まったときには帝国劇場などでミュージカルに触れて、“あの夢の舞台に立つんだ”と自分を奮い立たせていました。そうした生活が2年ほど続いた大学生のとき、父が東京の本社へ戻ることになったんです。いよいよ自分の夢に本気で向かっていけるんだと。絶対に夢をつかんでやると挑んだ『レ・ミゼラブル』のオーディションに応募して合格をいただきました。
アンミカ:レミゼといえばミュージカルの頂点じゃないですか。
山崎:レミゼには並々ならぬ思い入れがあったんです。東京音楽大学1年生のとき、どうしても演じたくて声楽科の仲間と自主公演をしたほどで。
アンミカ:レミゼの自主公演!?
山崎:みんなでお金を出し合ってセットも作って、1回限りの公演に全身全霊をかけました。
アンミカ:その熱意はすごいです。
山崎:オーディションではワンフレーズ歌うごとにふるいにかけられ、最終審査では『レ・ミゼラブル』の生みの親、ジョン・ケアードさんがロンドンから来日されたんです。
アンミカ:近年は『千と千尋の神隠し』の舞台も手がけられた、世界的な演出家のかたですよね。
山崎:はい。課題曲を歌うとジョンがすごくほめてくれて、別の曲も聴きたいから30分くらい練習してきてと、ぼくに譜面を渡そうとしたんです。そこで「譜面も練習も必要ありません。いま歌わせてください。3時間あるレミゼの全シーンが頭に入っています」と願い出ました。
アンミカ:それは印象に残るわぁ。
山崎:全国の19才で自分以上にレミゼ愛と知識があって、歌い込んでいる人間はいないと自信を持っていましたね。1曲の予定が5~6曲、譜面を見ないで歌い切りました。
アンミカ:それはすごい! 応募者数は2万人ほどだったとか。
山崎:そうだったみたいですね。無名の大学生が突然現れたので、ラッキーボーイと報じられましたが、声変わりで歌えなくなった中学時代からそこだけを目指してやってきたので、“これはラッキーじゃない、ここがスタートラインだ”と冷静でした。
アンミカ:有言実行とは言いますが、夢を語るだけでは実現は難しく、どれだけ準備をするかだと思います。山崎さんは留学経験があったからジョンさんと英語で会話ができて、深いレミゼ愛を自主公演という形にしたからこそオーディションで曲がほかの人より多く披露できた。
山崎:20代で叶える夢が明確だったんです。帝国劇場でロングラン公演をする4大作品『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』『エリザベート』『モーツァルト!』に出ること。幼い頃からの憧れで、高校時代には手帳に「この作品のこの役」と書き出していました。
アンミカ:それをすべて29才までに達成されていますよね。有言実行すぎます(笑い)!
山崎:でもまたすぐに試練がやってきまして。所属していた事務所が倒産したんです。
アンミカ:次から次へと、ほんとうに波瀾万丈…。これほどのスター俳優を抱えていても倒産することがあるなんて。
山崎:制作会社も兼ねた事務所で、日本発のミュージカルを世界に送り出そうと長年奔走していました。でも動員が振るわず、赤字が膨らんでしまって。それで社長に「解散!」と言われました(笑い)。
アンミカ:それからおひとりで?
山崎:いまの事務所に入るまでの短い期間ですが、携帯2台持ちで取材対応やスケジュール調整、ギャラ交渉などをすべてひとりでこなしました。
アンミカ:それができるかたは、そうそういないですよ。
山崎:この時期に自分の仕事の方向性を考えたんです。日本ではブロードウェイやロンドンのように、身近なエンタメとしてミュージカルが根付いてない。だからこそ30代からは、自分がミュージカル界とメディアをつなぐ存在になって、ミュージカルのハードルをグッと下げようと決めました。

座右の銘は「オールOK!」
アンミカ:20代で夢を叶えてもそこで満足しないんですね。
山崎:気軽に見に行けるようにならないと、ミュージカルに未来はないと危機感を抱いていましたからね。まずは「ミュージカルの人」として山崎育三郎の名前を全国区にすると誓ったんです。どうすれば認知してもらえるか、パッと芸能界を見渡したときに「プリンス枠」が空いていることに気づきました。
アンミカ:キャラ設定の重要性を感じます。しかも、自らプリンス枠を選ばれるのはさすが。
山崎:郷ひろみさんにミッチー(及川光博)さん、後輩はケンティー(中島健人)と意外にも少なかった。ミュージカル界ではすでにプリンスと呼んでいただいていたので、この路線のまま突き進もうと決めました。バラエティー番組に出るたび、ウインクや投げキッスをとにかくたくさんしましたね(笑い)。
アンミカ:ミュージカルの俳優さんだから指先がスッと伸びて、投げキッスの所作も美しくて。まさにプリンスそのもの!
山崎:爪痕を残すことばかり考えていました。ドラマにも積極的に出て、知名度をあげようと必死になった30代でしたね。
アンミカ:『下町ロケット』(TBS系)は視聴率20%超えでしたし、反響も大きかったでしょう。
山崎:そうですね。それとタイミングもよかったんです。日本語吹き替えを担当した実写版『美女と野獣』をはじめ、『ラ・ラ・ランド』などハリウッドでミュージカル映画が続々公開された時期でした。そのおかげもあってミュージカルの公演に来てくださるかたもどんどん多くなり、ありがたいことに即完売することが増えました。
アンミカ:30代でも思い描いた夢を見事に実現されて、現在40才。40代での目標は何ですか?
山崎:日本発のオリジナルミュージカルを世界へ送り出したいです。そのムーブメントを作り出すきっかけとして、ミュージカル×ボーイズグループオーディション「OK! Diamonds」を立ち上げました。
アンミカ:オーディション発のボーイズグループが全盛期の中でも、ミュージカルとのコラボはとても新鮮です。
山崎:日本初なんですよ。ミュージカル界を目指す若い子たちのために、どう貢献できるのか日々考えています。
アンミカ:これまでの歩みはこの挑戦への布石だったんですね。
山崎:プロデューサーとしては未熟でも、走りだしちゃおう! と。動いてみないことには、学びもありませんから。
アンミカ:40才とは思えないほどの経験値があるのは、山崎さんが思いも行動力もどちらも強いから。人生何周目?と思っちゃう。
山崎:人生は打席数だと思っているんです。とりあえず打席に立たないことには、球が飛んでこないじゃないですか。
アンミカ:すっかり準備癖がついてしまったと、反省しています。若い頃はバンバン海外に飛んで武者修行していたのに、いまは慎重になってしまって。でも心ひとつで、いつでも新しいスタートラインに立てると励まされました。
山崎:座右の銘はアメリカ仕込みの「オールOK!」ですから。
アンミカ 肩の力が抜けて楽になる心構え。どんな経験もプラスに生かすしなやかさ、素敵です!
山崎育三郎さんのHLLSPD
山崎育三郎さんに、Happy、Lucky、Love、Smile、Peace、Dreamについて答えてもらいました。今回はSmile、Peace、Dreamについて直撃!
Smile:あなたを笑顔にする宝物は?
家族の存在、そして音楽です
Peace:心が穏やかになる趣味や場所は?
応援してくださる“いくとも”の存在を感じられる舞台やコンサート
Dream:これからの目標は?
次の世代に夢をつなぐ存在でありたい
◆モデル・俳優・アンミカ
アン ミカ/1972年生まれ。1993年パリコレ初参加。モデル業以外にもテレビ・ラジオMC、俳優、歌手、テレビCM出演と多彩に活躍。「日本化粧品検定1級」など20個以上の資格を生かし、化粧品、洋服、ジュエリーなどをプロデュース。
◆俳優・山崎育三郎
やまざき いくさぶろう。1986年生まれ。ミュージカル『レ・ミゼラブル』をはじめ数々の舞台で活躍。そのほか、歌手、MC、ドラマ、映画と幅広く活動。現在、ミュージカル×ボーイズグループオーディション「OK!Diamonds」のプロデュースも手がけている。
撮影:田中智久 構成:渡部美也 ブラウス、パンツ/ともにAlunc ピアス/マナローザジュエル(アンミカさん)
※女性セブン2026年6月11日号