ライター歴45年を迎えたオバ記者こと野原広子(66歳)は一昨年、茨城の実家で母親を介護し、最終的には病院で看取った。今も思い出すつらかった自宅介護の日々。秋のお彼岸を迎え、頭に浮かんできたのは「母ちゃんとサラダ」「義父とスペアリブ」の思い出だった。
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母ちゃんが入院生活でサラダがお気に入りに
昨年春に亡くなった母ちゃんは、私が帰省介護していたときにサラダを作ると「おお、サラダが」と喜んだの。母ちゃんは亡くなるまで全部自分の歯で、それが自慢だったのよね。面白そうにパリパリと音をたてて食べて、子供の頃にロクに歯の手入れをしてもらえなかった私はそれが憎らしくてたまらない。
だけど不思議なんだよね。母ちゃんの料理のレパートリーにポテトサラダはあっても生野菜サラダはなかったし、第一、私が子供のころレタスは八百屋さんの店先にも並んでいなかったの。母ちゃん、いつサラダに目覚めた?
聞いたら「どごの病院でもサラダは出っぺな」というんだわ。晩年は入退院を繰り返したからそれですっかり好きになったんだね。さらに「酢の物だっぺな」ともいう。
カレーライスにたぷたぷの酢醤油をかけるほど酢が好きな母ちゃんから見たら、サラダは酢の物の変形らしいんだわ。で、そのあと、母ちゃんの「酢の物を食ってたら病気になんねえんだ」という根拠のない講釈が続く。
そういえば昔はドレッシングというものもなかったんだよね。最初にわが家でサラダを食べたのは私が上京してからで、レタスにサラダ油に酢、それからかつおぶしにしょうゆをかけてたの。近所の人から教わって食べたらうまかったとその時は言っていたけど、2回目はなかったから飽きたんだね。
私が作ったものを身を乗り出して食べた母ちゃん
料理といえば母ちゃんは私が作ったものは何でも身を乗り出して食べた。その中で忘れられないのがオレガノが入ったスペアリブのトマトソース煮込みよ。まだ義父ちゃんも元気でいるころで、実家に持っていくと母ちゃんは「どれ。ヒロコが作ってきたんじゃ食うかな」と口に放り込んだ。で、「んっ? こらどうやって作んだ。さっぱりしててうまいなや」と言う。一度もイタリア料理店なんか行ったことがないから、未知の味だったと思うよ。
やっかいだったのが義父ちゃんよ。子供の頃、私と母ちゃんが台所でおしゃべりしながら料理を作っていると、必ず怒鳴り声をあげたの。「テメェら、いつまでも何やってんだ!」って。私と母ちゃんが仲良くしているのが気に入らなかったんだね。中学生になってカレーなど簡単な料理を作ると見向きもしない。で、これみよがしに母ちゃんに「ラーメンでいいから作れ」ってこうよ。母ちゃんが「なんでヒロコが作ったの、くわねぇんだ」と言い返すと「きったねえ(汚い)」と吐き捨てたの。
まぁ、私だって黙っていじめられっぱなしになっている性格じゃないから、義父ちゃんにもそれなりの言い分はあると思うよ。