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薄井シンシアさん「私は生きがいを捨てました」生きがい探しに苦しむぐらいなら要らない

“ジャパン・アズ・ナンバーワン”の波に乗る

私は1980年に留学生として日本へ来ました。当時の日本は、フィリピンではそれほど先進国だと認識されていませんでした。でも私は1979年に米国の社会学者が書いた『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を読んで、「これからの時代は日本だな」と感じました。だから米国留学を捨てて、日本へ留学する奨学金を選びました。周りの人から「日本に行ってどうするんだ」と反対されましたが、いま振り返っても日本に来てよかったと思います。目の前に奨学金があって、直感も正しいと言っていたから迷いはありません。迷いがなければ、どんな邪魔が来てもすべてを振り払えます。

薄井シンシアさん
「直感=波に乗る」
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「直感=波に乗る」ということなのかもしれません。日本に来て感じたのは、私のように物事をはっきり発言する人が少ないこと。「珍しい」という理由でメディアの取材まで来てしまう。私にとって、日本という保守的な国は需要があるんですよ。

欲しいものは努力して勝ち取るか、奪う

私は1980年に自分で舵を切って日本へ来ました。みんなが共働きを選ぶときも舵を切って専業主婦になりました。そのたびに、目の前の人たちから「ダメだ、ダメだ」と言われたけど、そういうものをすべて振り払って正解だったと思います。

このハングリー精神は、人から反対されて育ったからこそ培われたのかもしれません。幼い頃から負けず嫌いで頑固。「ダメ」だと言われたら「なぜですか?」と聞き返すタイプ。目の前に「はい、どうぞ」と物を差し出された経験はありません。欲しいものは努力して勝ち取るか、人から奪うかでした。

だから職場で、私とウマが合う上司は、そこを見抜いて私をうまく使える人。これだけタフな相手だから競争しても無駄。うまく使ったほうが得です。ただ、上の人の意見には従います。私の場合、上司の意見がちょっと違うなと思えば、とりあえず意見を言います。それでも上司の決断が変わらなければ、最終的には上司が責任を取るんだから従います。その人の案に沿って結果を出せるように努力します。それが組織。 自分のプライドなんてどうでもいい。私の組織ではないし、私が一時的に所属している組織ですから。

◆薄井シンシアさん

薄井シンシアさん
薄井シンシアさん
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1959年、フィリピンの華僑の家に生まれる。結婚後、30歳で出産し、専業主婦に。47歳で再就職。娘が通う高校のカフェテリアで仕事を始め、日本に帰国後は、時給1300円の電話受付の仕事を経てANAインターコンチネンタルホテル東京に入社。3年で営業開発担当副支配人になり、シャングリ・ラ 東京に転職。2018年、日本コカ・コーラに入社し、オリンピックホスピタリティー担当に就任するも五輪延期により失職。2021年5月から2022年7月までLOF Hotel Management 日本法人社長を務める。2022年11月、外資系IT企業に入社。65歳からはGIVEのフェーズに。近著に『人生は、もっと、自分で決めていい』(日経BP)。@UsuiCynthia

撮影/小山志麻 構成/藤森かもめ

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