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【骨になるまで・日本の火葬秘史】上皇ご夫妻は400年ぶりでも「火葬」を望まれた 新時代の「送り方・送られ方」を考える

後醍醐天皇の陵は京都の方角を向いている

一方で天皇の役割は大きく変遷していく。平城京を経て平安京に遷都(794年)した桓武天皇の時代までは中央集権の律令政治はうまく機能していたが、藤原氏など特権階級に「荘園」という私有の領地を認めたことから天皇支配は揺らぎ始め、9世紀末頃からは藤原氏の摂関政治が始まる。

その藤原氏の権勢が頂点に達したのは、NHK大河ドラマ『光る君へ』が描く藤原道長(966〜1028年)である。ドラマのように天皇は「御簾の向こう」にいて裁可は下すが言わされているだけ。権威はあっても権力はない。

藤原の後、平、源、北条、足利、織田、豊臣、徳川と武力を伴う日本の支配者は代わるが、この間天皇が権力を掌握しようとしたことが、一度だけある。

2度の元寇(1274年の文永の役と1281年の弘安の役)によって幕府が揺らいだ鎌倉時代、不平を受け止めた後醍醐天皇が「討幕の論旨」を発し、楠木正成、新田義貞、足利高氏(後に尊氏)らが呼応して幕府を倒し、親政(天皇が行う政治)を行った。「建武の中興」と呼ばれるが、1333年から2年半で崩壊。天皇の戦術戦略は武家に及ばず、足利尊氏は室町幕府を開いた。

都を追われた後醍醐天皇は1339年に亡くなる。陵は遺言に基づき、奈良の如意輪寺に京都の方角である北を向いて造られた。

後醍醐以降、天皇は皇居にいて武家に官位官職を与え、天変地異を鎮めるために祈り、即位の大嘗祭、葬儀の大喪の儀、そして折々の神事をこなす存在となる。

昭和天皇は「自粛ムード」のもと、土葬で弔われた(Ph/時事通信フォト)
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使い勝手はいいが権力を持ってもらっては困る江戸幕府は、「天皇は御芸能の事、第一御学問他」を第一条とする「禁中並公家諸法度」(1615年)で活動を縛った。芸と学問に励んで余計なことは考えるな、というわけである。

天皇の葬儀は、室町時代の後光巌天皇(1352〜1371年)以降、京都東山36峰のひとつ、月輪山(つきのわやま)のふもとにある泉涌寺(せんにゅうじ)で執り行われた。真言宗泉涌寺派の総本山で天皇家の「御寺(みてら)」である。

隣接する月輪陵、後月輪陵には四条天皇から仁孝天皇までの14の陵がある。

仏教の浸透とともに長らく火葬が一般的となっていた天皇家の「弔い」だが、江戸時代初期の後陽成天皇が最後になる。次の後光明天皇(1633〜1654年)が仏教を「無学の用」と称するほど嫌って遠ざけていたことで、火葬も否定され、ふたたび土葬の慣習が復活したのだ。

同じく泉涌寺に土葬で葬られた幕末の光格、仁孝、孝明の天皇3代は、日本が近代国家に向かい明治維新で躍進を図るための布石を打つ役割を果たすことになる。

光格天皇は、紫宸殿と清涼殿を古儀に則り再建、神嘉殿を造営し新嘗祭を復活させた。そうした動きと古代の天皇政治を理想とする本居宣長、平田篤胤(あつたね)ら国学者の思惑が連動し反幕運動が活発化する。

光格天皇の子の仁孝天皇も、天皇復権の思いを同じくするが早世したことで、遺志は孝明天皇に引き継がれる。ペリーの浦賀来航(1853年)などに強い危機感を持った孝明天皇は外国陣を排斥する攘夷(じょうい)を強く祈願した。それが維新の志士の思いと重なって尊皇攘夷運動が活発化する。しかし孝明天皇は1867(慶応2)年に死去。鎖国の遅れを取り戻し欧米列強と渡り合う近代国家の構築は、翌年に即位した明治天皇が担うことになった。

しかし即位時に16才だった明治天皇に国家体制を確立する器量は期待できず、明治政府を樹立したのは薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允、公家の岩倉具視らだった。

政府は欧米列強への対抗策として殖産興業、富国強兵を成し遂げるために、天皇の権威を存分に使った。古代から継承されてきた皇室祭祀や神宮祭祀、神社祭祀の復興をもって神道国教化へ向けて動き、日本は千年以上にわたる万世一系(一つの系統が続く)、皇祖皇宗(天照大神以下の天皇が支配)の国であるとして神性が高められ、明治天皇は主権を持った存在であるとともに現人神となった。

明治天皇は31の儀式を経て土葬された

葬儀と陵も、天皇家の神格化に使われる。

胎動は国学による尊皇の動きが活発化した幕末からで、明治政府の樹立宣言「王政復古の大号令」(1867年)に記された「神武創業(初代天皇の時代に基づくの意)」を現実化するためには神武天皇の墓が必要だとして、天皇陵探しの末、奈良・橿原市の畝傍山(うねびやま)のふもとに神武天皇陵が築かれた。鳥居と玉砂利の拝所などは伊勢神宮を模しており、その形式は武蔵陵墓地などにも引き継がれている。

日清・日露の戦いを制し、文字通り日本を欧米列強に並ぶ存在にした明治天皇は、1912(明治45)年に崩御。葬儀は古式に則り、7月31日の拝訣の儀から始まって殯宮での数々の儀式、本葬である劍葬の儀を経て山陵(伏見桃山陵)に移して、翌年8月2日の皇霊殿親祭の儀まで31の儀式が行われ、土葬された。

63年の長きにわたって天皇を務められた昭和天皇は、1988年9月19日、大量の血を吐いて倒れた。そこから崩御の1989年1月7日まで予断を許さない事態が続き、各地のお祭り、企業や学校の祝賀行事、クリスマスや正月の祝い事などはすべて自粛された。

戦前に存在した「国葬令」が敗戦によって失効したため、葬儀は国葬ではなく天皇家の「私的行事」として本葬にあたる「劍葬の儀」と、政府主催による無宗教形式の「大喪の礼」が執り行われ米ブッシュ、仏ミッテランなど多数の弔問客が出席した。葬儀は壮麗なものとなった一方で当時の日本は長きにわたり「自粛ムード」に覆われた。

明仁上皇が、自らの老いと葬儀を想定して「おことば」を発したのは、2016(平成28)年8月8日だった。祈ることと寄り添うことを柱とした象徴天皇制を模索してきた上皇が、国政に関する発言を控えねばならないのを承知で、「生前退位」に言及した「おことば」は衝撃的だった。

『東京新聞』の宮内庁担当記者を務め、いまは皇室ジャーナリストとして『令和の「代替わり」』(山川出版社)を著した吉原康和は、次のように感じたという。

「象徴天皇の務めが体力的な限界でできなくなれば、潔く退位すべきという象徴天皇のあるべき姿を国民に問う決断だったのではないでしょうか」

天皇は歴代、民族文化の連続性を確保し、ほぼ象徴としての役割を果たしてきた。国民は東日本大震災の被災地を訪れ、膝をつき、目線を合わせて被災民に言葉をかけ、サイパンやパラオといった戦地を訪れては深々と頭を下げる上皇ご夫妻を敬愛している。

ただ、国民の思いはさまざまだ。

右翼民族派の重鎮である犬塚博英・八千矛社代表は、今年も5月25日の楠木正成の命日に、祭主として「楠公祭」を全国から100名以上を集めて乃木神社で執り行った。犬塚は「楠公の『尊皇絶対』の精神に学び続ける」と述べ、「楠公祭」の継続を誓った。

戦地には赴いても靖国神社には参拝されない上皇ご夫妻への悲痛な思いが、2018年6月、小堀邦夫宮司の「陛下が慰霊の旅をすればするほど靖国から遠ざかる」という不適切発言となり、小堀宮司は職を辞した。

それぞれの思いは受け止めつつも天皇家は、「象徴」であり続ける。「おことば」では天皇に深刻な事態が訪れた際のモガリや葬儀に関する行事が延々と続き、人々に大きな影響を与えることへの懸念を述べた。「昭和の自粛」を意識してのことだ。ひとえに国民への負担を避けたい──その一心が上皇ご夫妻の葬儀の簡素化とそれを踏まえた火葬の決断につながった。

歴史的背景は比べるべくもないが「弔い」の大きな変遷点にいる我々がいま、天皇家の葬送の歴史に思いを馳せるのも必要なことだろう。

400年ぶりの「火葬」での弔いを表明された上皇ご夫妻の陵は武蔵陵(下)に確保されている。

【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト。1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『鳩山一族 誰も書かなかったその内幕』(彩図社)、『同和のドン 上田藤兵衞「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。

※女性セブン2024年6月27日号

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