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【骨になるまで・日本の火葬秘史】上皇ご夫妻は400年ぶりでも「火葬」を望まれた 新時代の「送り方・送られ方」を考える

御陵を簡素化し葬法は火葬で行いたい

自然豊かな東京・八王子市に位置し広大な敷地に漂う静謐な雰囲気から「都内随一のパワースポット」としても人気を博す武蔵陵(むさしりょう)。

武蔵陵の入り口には「喫煙・飲食禁止」などのルールを記した案内板が掲げられている
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「陵」とは「天皇と皇后のお墓」であり、観光地ではない。大正天皇とその后の貞明皇后、昭和天皇とその后の香淳皇后、4つの「陵」が造営されている。参道の両側には20mを超す北山杉が並木道を形成する。北山杉は京都市北西の北山地区が産地で「磨丸太」として茶室や数寄屋に使われている。

その北山杉が影をつくる道を玉砂利の音を聞きながら歩く。やがて右側に少し仰ぎ見る形で上円下方墳が現れ、それが大正天皇陵で、隣が貞明皇后陵。北参道を歩むと、右側に大正天皇陵よりも低い上円下方墳の昭和天皇陵が現れ、その隣が香淳皇后陵だ。

大正天皇陵と貞明皇后陵が隣接して平行に設置されている一方、昭和天皇陵と香淳皇后陵は土地の面積の問題で平行に造られてはいない。それをご覧になった明仁上皇が「御陵用地に余裕がなくなっている」という感想を持たれたのが、葬儀変更のきっかけだった。

上皇と美智子上皇后は、天皇在位中の2013年11月14日、「御陵を簡素化し葬法は(従来の土葬ではなく)火葬で行いたい」と、宮内庁を通じて気持ちを述べられた。

江戸時代以降、近代における天皇の弔いは土葬で行われてきた。大がかりな儀式を経て、ご遺体を納めるための陵が造営される。昭和天皇崩御の際は、葬儀と陵の造営に100億円が投じられたという報道もあった。

上皇ご夫妻はそうした背景を踏まえ、現代の日本社会において火葬が一般化していることや、葬儀の規模や形式をより柔軟に検討できること、何より「弔い」に伴う国民の負担を減らすことを理由に、火葬で送られることを選択された。その結果、上皇ご夫妻の陵は大正天皇陵の横に「御陵営予定地」として確保された。区域面積は7870平米と、大正天皇・皇后御陵の約半分だ。

400年ぶりとなる「火葬の復活」と「御陵の縮小」は、葬儀と墓の簡素化に直面している日本を象徴する大きな転換だといえる。

武蔵陵にはたびたび皇族が参拝に訪れる。愛子さまも4月下旬にご卒業とご就職の報告に訪れられた(Ph/時事通信フォト)
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初めて火葬された天皇は持統天皇だった

天皇は文化的な連続性の担い手である。8世紀に編纂された記紀(古事記・日本書紀)は、神武天皇以来の「神話の時代」を折り込んでいるが、実在の天皇は第10代崇神からだと考えられている。巨大な陵で知られる第16代仁徳天皇の古墳時代を経て、6世紀末から飛鳥時代を迎え、歴史に名を刻む最初の女帝である第33代推古天皇が592年に即位し、甥の厩戸王(うまやどおう、聖徳太子)が補佐する。

聖徳太子は、6世紀半ば頃に伝来していた仏教の教えと仏像などの仏教文化を“丸のみ”して治世に生かした。

聖徳太子の改革をさらに推進して国家の形を整えたのは天智天皇である。律(刑法)と令(行政)の制度化を図るが、律令国家の完成は、弟の天武天皇、その妻の持統天皇、曾孫の文武天皇の治世まで待たねばならず、大宝律令は701年に完成した。

天皇の祭祀の形も律令国家の進行に連動する。686年に亡くなった天武天皇の葬儀は、長い殯(もがり)の後、発哀(みね)、誄(しのびごと)などの儀礼が続けられた。モガリとは死後、遺体をすぐには埋葬せず、棺に納めて仮安置し、別れを惜しみながらも体から魂が抜け「完全な死者」になったことが確認できるまで一定期間置いておく風習で、ミネとは僧尼による慟哭(どうこく)儀礼。弔いの儀式に時間と労力を割くことで、天皇の権力を証明しようとした。

702年に亡くなった持統天皇は火葬を選択した。日本の火葬は「西遊記」で名高い玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に唐で学んだ道昭(どうしょう)の700年が最初といわれている。道昭に帰依していた持統天皇が続き、その後の天皇の弔いは火葬と土葬が混在しつつ、室町時代の中期には火葬が定着する形で歴史が刻まれていく。

その間には840年に亡くなった淳和天皇のように遺言に基づき火葬に付された後、遺骨が砕かれて京都の小塩山に撒かれた「散骨」の先駆者も存在した。

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