
競合他社の情報を盗み出すためにスパイを送り込み、「不正内部告発」を作り出す――経済小説さながらの工作が、なんと大手弁護士事務所の間で行われていたことを、弁護士会内の綱紀委員会の調査が事実認定し、さらに懲戒委員会がそれを「疑わしいが罰しない」決定をするという不可解な事態が起き、弁護士業界に大きな波紋を呼んでいる。 【前後編の前編】
2016年頃、スパイを送り込まれたとされるのは、300人超の弁護士を擁する「ベリーベスト法律事務所」。ベリーベストは、離婚や交通事故など、いわゆる一般民事事件を中心に取扱う最大手の法律事務所で、当時は消費者金融業者への過払金返還請求も数多く手掛けていた。ところが、過払金請求事件の中で、「S」という司法書士事務所から案件を引き継いだ際に支払っていた訴状作成などの委託報酬が、実質的な紹介料であり、弁護士に禁じられている「非弁提携」にあたるとして、2020年、東京弁護士会から懲戒処分を受けた。
弁護士会によると、この処分の裏側で暗躍したのが、前述の競合他社が送り込んだ人物であった疑いがあるという。
懲戒処分を巡っては、ベリーベストは日本弁護士連合会(以下、日弁連)を相手取り、裁決の取消を求める訴訟を東京高等裁判所に提起。高裁は今年6月、日弁連の処分を支持する判決を出した。その審理期間中だった昨年12月、実は懲戒処分の基となったのは、競合の大手事務所「弁護士法人アディーレ法律事務所」(当時の名称。以下、アディーレ)によるスパイ行為であることが、弁護士会内で弁護士の問題行為を調査する「綱紀委員会」によっていったんは事実認定されたものの、さらにこの11月中旬、「懲戒委員会」によって「疑いはあるが、事実は認定できない」とされたのだ。前代未聞の混乱――“法曹ムラ”のなかで、いったい何が起きているのか。
弁護士と司法書士の関係は「グレーゾーン」
アディーレは当時、ベリーベストの5倍から10倍ほどの過払金請求を手掛けており、過払金請求を取扱う最大手の事務所だった。しかし、前出のS司法書士事務所が急成長し、アディーレの2倍ほどの過払金請求を集めるようになっていた。
そもそも過払金とは、過去に消費者金融業者からお金を借りていた債務者が、法律の上限を超えて支払った利息を取り戻すことができるお金である。債務者の中には、過払金があること自体に気づいていない人が少なからずいる。そうした潜在的な顧客を、広告などを駆使して発掘したのがS司法書士事務所であり、先発のアディーレを追い抜くほどに急成長。S司法書士事務所と顧客争奪戦を繰り広げるなかで、アディーレが行っていたのが、息のかかった人物の送り込みではなかったかと、弁護士会は調査を行っていた。
昨年12月の東京弁護士会綱紀委員会の議決によると、アディーレの狙いは、S司法書士事務所とベリーベストとの間で行われた金銭のやり取りの証拠を入手する、といったものだったとされる。司法書士は2002年の司法書士法改正で、訴訟金額が140万円以下の民事事件について、簡易裁判所への訴訟などを代理することができるようになった。弁護士に頼むより費用が安く済むイメージがあるため、過払金を請求しようとする人は司法書士に依頼するケースが多かった。
ところが、過払金を計算した結果、もし合計が140万円を超えてしまった場合、その訴訟は司法書士では提起できなくなる。そこで、多くの司法書士は140万円を超えることが判明した案件を弁護士事務所に引き継いでいた。S司法書士事務所も複数の弁護士事務所に引き継いでいたが、依頼案件が増えすぎて既存の弁護士事務所ではさばききれなくなったので、新たに大手のベリーベストも引継ぎ先にしたようだ。
引き継ぎ対象となる案件は、すでに司法書士事務所の手で過払金の計算や訴訟を起こすための書面などの準備がすべて整っている状態だ。S司法書士事務所では、本人訴訟のための書類作成を約20万円で行っていたので、ベリーベストはこれに準じ、それらの書類などの対価として同額を司法書士事務所に支払っていたという。
弁護士法では、弁護士が依頼者の紹介を受けた対価として、謝礼、紹介料を支払うことを「非弁提携」として禁じている。“口利きビジネス”につながりかねないからである。
だが2002年の司法書士法改正により、現実には、司法書士は140万円の上限を超えた訴訟や、140万円以下でも訴訟の相手方から控訴された場合は、弁護士に引き継がざるを得なくなった。とはいえ、書類作成などの実務を行っている場合は、「タダで引き継ぐ」というわけにもいかない。しかも、依頼者は消費者金融から借金を繰り返した人々であり、直ちに支払いが難しい人も少なくない。そこで司法書士の業界団体「日本司法書士会連合会」は、司法書士と弁護士の連携が非弁提携とされることがないよう、日弁連に案件引き継ぎに関するガイドラインの制定を求めていた。
ところが、日弁連はガイドライン化を遅々として行わず、先送りしてきた。その結果、司法書士と弁護士の関係は、長きにわたり「グレーゾーン」のままになってしまった。その狭間で、消費者金融業者による全件控訴などにより、S司法書士事務所は大量の案件を引き継がざるを得なかった。そのため、ベリーベストは「受け皿になって依頼者を救済してほしい」と要請されたという。
スパイ行為の報酬は「1000万円」
アディーレはこのグレーゾーンに注目し、ベリーベストからS司法書士事務所への報酬支払の事実を掴もうとしていたとされる。東京弁護士会の綱紀委員会の議決によると、アディーレ内では、一連の工作は「特命業務」と位置付けられ、陸上自衛隊出身の経営幹部が「諜報活動の心得」まで伝授していたという。
2016年3月、ベリーベストにアディーレ出身の男性事務員A氏が入所する。A氏は「妻が育児ノイローゼ」とのことで、転勤の少ないベリーベストに入りたいと希望してきたという。だがA氏は遅刻、早退、欠勤を繰り返し、オフィスに来ても日がな一日、ネットサーフィンをしているというあり様だったという。そして同年8月に退職した。
その1か月後、A氏は突如、ベリーベストが「非弁提携」を行っているとして、勤務時に知り得た内部資料を用い、内部告発のような形で弁護士会に懲戒請求をかける。それと同時に、ベリーベストに対し、勤務中の「精神的苦痛」を理由とした200万円の損害賠償請求訴訟を起こしたという(後に請求棄却)。
昨年12月、弁護士会綱紀委員会は、A 氏はアディーレから1000万円の報酬を約束されてベリーベストに入ってきたと認定。そしてそれらの“スパイ行為”について、違法性を否定できないと判断し、さらに「懲戒委員会」に事案の処分内容について審査を求めた。
ところが懲戒委員会は一転、不正行為の「疑いはある」としたものの、騒動の関係者たちが事情聴取に応じないため、「事実を認定することができないと判断せざるを得ない」として、今年11月中旬に「懲戒しない」とする決定を下したのである。
アディーレに尋ねると、以下のように回答があった。
「ご指摘の東京弁護士会綱紀委員会の議決において認定された事実について、当法人は事実無根であるとして全面的に否認しております」とし、懲戒委員会の決定について「当法人の主張が認められたものと認識している」と述べている。
「後出しジャンケン」で弁護士会による処分
実は、一連の騒動の本質は、それらの“スパイ行為”が事実かどうか、ということだけではない。東京弁護士会と日弁連が、不正ととられかねない手段で入手された証拠をベリーベスト追及の材料に使っている――それこそが不可解な事態なのだ。
弁護士会は2016年9月にA氏による懲戒請求を受けた後、A氏が在職期間中にベリーベストに過払金請求の依頼をした顧客からの陳述書を根拠に、弁護士会独自の懲戒請求を行った。元顧客の陳述書は、具体的な情報の無い簡素なものであったが、直前にあったA氏による懲戒請求と一体化されたことで、情報が補強された形となった。

日弁連は日頃から原則的に、「違法に収集された証拠は刑事事件では無効である」と強く主張してきた。しかしベリーベストに対する懲戒では、不正が疑われる証拠を“フル活用”するダブルスタンダードの動きを堂々と見せた。
そもそも同じ東京弁護士会内の2つの委員会で、異なる見解が出された“混乱”も、そのあたりに理由がある、と多くの法曹関係者が見ている。つまり、昨年12月、綱紀委員会ではスパイ活動が事実認定されたが、1年後の今年11月の懲戒委員会でその事実認定が“保留”されたのは、今年6月にベリーベストへの懲戒を「妥当」だとする東京高等裁判所の判断が出されたことで、「懲戒の原因となった証拠が違法に収集されたものだと、弁護士会として認めるのは都合が悪い」という保身的な判断があったからではないか、ということだ。懲戒委員会で明確な反証がなされたわけでもないのに、綱紀委員会の判断が覆ったのは、異例のことだという。
しかも、そのベリーベストの懲戒処分のロジックは、憲法に抵触する「事後法」に該当するという指摘もある。前述の通り、司法書士からの案件引き継ぎのルール化は、司法書士の業界団体が求めても、日弁連があえてガイドライン策定を避けてきた「グレーゾーン」である。
今回の懲戒処分に関する訴訟では、日弁連は「取引履歴、引き直し計算データ等の引き渡しと依頼者及び事件の紹介とは、いずれかだけでは意味なく切り離せない」として、案件の引き継ぎで金銭が発生した場合、すべからく紹介料である、という解釈を「新たに」行ったという側面がある。このように、実行時には基準がないものについて、後になって新たな基準を作ってアウトだと認定して処罰することは、法律的には、事後法による遡及処罰といわれる。いわば「後出しジャンケン」である。
ベリーベストと弁護士会・日弁連の紛争は、裁判所に持ち込まれた。弁護士会による懲戒処分の取り消しを求める訴訟の場合、日弁連の審査請求が司法手続きに準じる「信頼性の高い手続き」として、一般市民のように地方裁判所から始めるのではなく、いきなり高等裁判所で審議が始まるという“特別ルール”が適用される。しかし前述の通り、日弁連は「違法収集が疑われる証拠」を使っていたり、「事後法」に該当しそうな判断をしていたわけで、「信頼性の高い手続き」ができる体制・制度なのかどうかには疑問が残る。
さらなる深刻な問題は、今年6月の高等裁判所の判決だ。それは日弁連による処分を追認するものだが、その判決には、原告であるベリーベストの主張についてほとんど判断しないものであり、日弁連におもねったものではないかと、疑問の声が上がっているのである。