この世に生を受けるのは偶然の賜物だが、死は万人にとって必然であるからこそ、恐怖と好奇心が交錯する。死の直前とその瞬間には人体にどのような変化が起こるのか。そのとき本人は何を感じているのか――。最新の医学と科学の知見を交え、「知らずに死ねない」死の研究の最前線をお届けする。
「死の12か月前」にはBMIが急激に落ち込みはじめる
いつの時代も、人にとって“死”は重大な関心事である。それは、ひとえに「人は必ず死を迎える」ためにほかならない。どれほど医療技術が進歩しても、死を避けることはできないのだ。罹る病や、不慮の事故、突然死など死因は人によってさまざまだが、来るべき人生の最期を穏やかに迎えたいとは誰もが思うことだろう。と同時に、終末期やお迎えの瞬間について「自分はどうなるのか」と考える人は少なくない。
そもそも、命が尽きようとしているとき、人体ではいったいどのようなことが起きているのだろうか。『死ぬということ』などの著書がある東京大学名誉教授で医師の黒木登志夫さんが解説する。
「特別養護老人ホームに入所する106人の『亡くなるまでの5年間』の栄養状態を追跡した、東京有明医療大学の川上嘉明氏の研究に興味深いデータがあります。いわく、死を迎えるまでの『最初の4年間』の食事摂取量は普通の人の半分程度に抑えられているものの、まだ問題なく食べることができますし、水分摂取量にも大きな変化が見られません。
ところが、その4年の間に、身長と体重から肥満度を示す『BMI』がじわじわと減少していきます。身体機能の低下で栄養の摂取がうまくできなくなり、高齢者特有の“食べてもやせてしまう現象”が起きているためです」
そして、「死の12か月前」にはBMIが、8か月前には食事摂取量が、5か月前には水分摂取量が急激に落ち込みはじめる。死の2~4週間前になると、人は元気だった頃とは異なる行動をとるようになると、黒木さんは続ける。
「食欲が減退しはじめるうえにのどの渇きも減るので、水分も摂らなくなってしまうのが大きな変化です。食事と水分の摂取量が減少すると、当然ながら体重が急激に減少し、体の動きも鈍くなります。これらは体の機能が徐々に停止に向かい、栄養を必要としなくなるため起こると考えられます」
ゆるやかに呼吸が止まる
死の1~2週間前には睡眠時間が長くなる。周囲からは、意識が朦朧とし混濁しながら眠りについているように見えるが、当人は頭の中で夢と現実の間を行ったり来たりしているという。
「体温が1~2℃低くなってきて、尿の量や血圧の低下、呼吸の乱れが見られます。また、血圧の低下に伴い、体内への血液の巡りが悪くなるため、唇、皮膚、手足などが青く変色してきます。数日前とは明確に異なる変化のため、いよいよ死が近づいていると誰もが認識できるはずです。
やがて、深い呼吸と浅い呼吸が繰り返される『チェーン・ストークス呼吸』や、下顎を上げてあえぐ『下顎呼吸』が見られるようになります。これらは、体内が低酸素状態となるため起こる現象です。この段階になると、死が近くに迫っていると考えていいでしょう」(黒木さん・以下同)
『死亡直前と看取りのエビデンス』(森田達也、白土明美著)に記される研究によると、下顎呼吸が生じてから亡くなるまでの時間は、1時間以内が約30%、1~4時間以内が約30%、4~12時間以内が約20%と、大半が1日以内に亡くなっている。すなわち、私たちは死の瞬間を迎えるまでにゆるやかに呼吸を止める動きに入っているのだ。
死の前に起こること
【2〜4週間前】食欲の減退、体重の減少、動きの鈍化
【1〜2週間前】眠る時間が長くなる、意識が朦朧とする
【直前】体温の低下、血圧の低下、尿量の低下、呼吸の乱れ、脈が不規則に、唇、皮膚、手足などの色が青くなる、呼吸の変化
亡くなる直前の奇妙な行動
特に高齢者において、手術後などのストレスが高いときや、死の間際に見られる興味深い行動の1つが「せん妄」である。せん妄とは、死が迫っている人が精神的に疲弊し、一種の錯乱状態に陥ることだ。黒木さんによると、手術後の環境や体調の変化などの影響で自然に起こる現象だというが、科学的に解明されていない不可解な行動も見られる。
「せん妄の事例で多いのは、朝と夜といった時間帯や、病院と家など場所が曖昧になるというもの。なかには突然、亡くなった配偶者の名前を呼んだりするかたや、亡くなった親や友人と会話しているようにうわごとを繰り返すかたもいます」
周りからは奇妙な行動に見えるという。
「実際には見えるはずのない人やモノが見えている現象と考えられており、これによって深い安らぎを得られる人もいる。また、死ぬ間際になると、自分の体から魂が浮いているように感じたり、小さいときの思い出が走馬灯のように浮かんできたり、突如、子供の頃の記憶が戻る人もいるといわれます。昔の思い出話を淡々と語り出す人もいるようですね」
80代の父をがん闘病の末、看取ったKさん(59才)が、その瞬間を振り返る。
「教員をしていた父は、私が子供の頃から仕事第一で、わが子よりも生徒をかわいがっていたように思います。昭和の時代だったので、休日も生徒たちと遊びに行くことも珍しくなく、家族は二の次。それをさびしく思ったこともありましたが、あきらめていました。
そんな父の呼吸が浅くなり、いよいよというとき。『好子、遊園地、楽しいな』と言ったんです。遊園地なんて行ったことはありません。でも、子供の頃、近所にあった小さな公園のことを父と私は遊園地といって学校帰りに立ち寄ったことが何度かありました。そのときのことを思い出していたのかな。ずっとしかめっ面で眠っていたのに、やさしい笑顔になって。最期に思い出してくれたことで、子供の頃のさびしい思いもちゃらになりました」
黒木さんが言う。
「原因はまだはっきりと明らかになってはいませんが、われわれの記憶は脳の中に重なって記録され、昔の記憶ほど奥深いところに仕舞われている状態とされます。死が近づくと、記憶の断層が上からはがれることで眠っていた記憶が呼び覚まされるという説があります」