《周囲に刺激を与える“発光体ギャル”》97才の現役デザイナー・藤本ハルミさん、大阪・関西万博 で要人を迎えるアテンダントのドレスをデザイン「上方の伝統文化を世界の人に発信したい。愛郷心・愛国心です」

「唯一無二のドレス」を作り続け、70才でパリコレデビューしたファッションデザイナー・藤本ハルミさん(97才)。2025年春開催の大阪・関西万博では、パソナグループパビリオンのアテンダントが着用する衣装を手がけ、注目を集めている。その制作現場にお邪魔した。

上方の伝統文化を世界の人に発信したい
9月に先行してお披露目された7着のドレスは、祇園祭の山鉾巡行や桜吹雪の柄がなんとも艶やかだ。そして、神戸にあるアトリエにも万博の出番を待つドレスの一部が並んでいた。

「これ(写真参照)は源氏物語をイメージしたドレス。なんでかわかる? 図柄が源氏香(※)でしょう。そして、背中のリボンは平安貴族が十二単を着たときに重ねた『二つ色』を再現したもの。えっ、源氏香も知らんの? もっと勉強せな〜」
※「源氏香」は、和歌や古典文学を主題に香りを組む「組香(くみこう)」の1つ。5種の香を組み合わせて52パターンを作り、『源氏物語』54帖のうち桐壺と夢浮橋を除く各帖に当てはめたもので、縦線と横線を組み合わせた、右のような「源氏香図」で表現される。
作品の説明をする藤本ハルミさんの言葉は、快活で鋭く、小気味よい。声に張りがあり、よく通る。
「私は昔から乾杯や挨拶をやらされるタイプ。いまはどこに行っても最高齢ですが、私みたいにようしゃべる年寄りはいません(笑い)」(藤本さん)
ドレスは京友禅や西陣織など日本の伝統工芸を用いた着物地や帯地で作られている。藤本さんは、このドレス作りをライフワークとし、60年近く続けている。万博の依頼が舞い込んだのは“青天の霹靂”だったが、それは必然だったかもしれない。
「藤本さんのドレスには、日本の伝統素材に“いのち”を吹き込み、その価値を次世代に引き継ぎたいという思いが込められている。その思いに共感しました」(パソナグループの担当者)
オファーを受けた理由について、藤本さんが語る。
「私は神戸で生まれて関西で活躍させてもらったから、関西が元気になるのがうれしいし、上方の伝統文化を世界の人に発信したい。愛郷心・愛国心です」
服作りの自信を失ったヨーロッパ旅行
藤本さんは、神戸で二代続く船乗りの家に生まれた。
「祖父、父とも外国土産に洋服を買ってきてくれることが多く、幼い頃からドレスは身近でした。子供のくせに出入りの洋裁屋さんの仮縫いに文句を言うもんだから、母から『学校を出たら洋裁学校に行って、自分の服は自分で縫いなさい』と言われたのが服作りの始まり」
神戸の洋裁学校を卒業後、18才のときに終戦。まだまだ学びたいと、東京・神田駿河台の文化学院に入学した。
「神戸の学校で服作りのいろいろがわかってきたら面白くなって、もっと勉強したいと思った。でも、キャリアウーマンになるなんて夢にも思わず、ふつうにお嫁に行くと思っていましたよ」
20才、文化学院美術部に在学中、父親が病に倒れ、神戸に戻ることに。
洋裁を教えて家計を支え、1954年「オートクチュール・マーガレット」を開店。技術とデザイン力の高さにたちまち人気店となった。転機は1960年代半ばに訪れる。全国の洋裁店オーナーとヨーロッパへ視察旅行に出かけたことがきっかけだ。
「パリで、フランス人と日本人の体格差にがく然としました。正面からだと変わらなくても、横から見ると、フランス人はメリハリがあり、日本人は顔も体ものっぺり。日本人に洋服は似合わないと、すっかり自信を失いました」
恩師に言われた「プライドを持てる服を作れ」
気落ちした藤本さんの心に火を付けたのは、人生の恩師ともいえる華道家で小原流三世家元、故・小原豊雲さんだった。
「意気消沈する私に家元は、『きみが国賓として欧州に招かれたときに、日本人としてのプライドを持てる服を作ればええ』とおっしゃったんです。
そこから、着物地や帯地を使ったドレスを作ろうと決心しました。
着物は日本人の薄い体をしっかりとした着物地で包み、帯でアクセントをつけることによって側面美を生み出している。理にかなっているんですよ。それをドレスに表現したいと思いました。
思えば、昔からウールの洋生地で羽織を作ったり、いいと思えば和でも洋でもこだわりはなかった。私、面白いものを作ってやろうという気持ちが強いの。既成概念を捨てなければ、新しいことはできへんわ」
知人から「こんな非日常の服、誰が着るの?」と陰で言われても、ブレることはなかった。
「“一枚も売れなくてもいい”と思っていたので、全然気になりませんでした」
そして1968年、41才のときに神戸で初のファッションショーを開くと、瞬く間に評判となる。その後、数々のオファーがあったものの、オートクチュールにこだわる藤本さんは商業的なショーには一切参加しなかった。
70才で訪れた第ニの転機
神戸は1973年の「ファッション都市宣言」以降、フランスとの交流がある。神戸ファッション界の第一人者となっていた藤本さんにも、その流れで新たな挑戦の機会が訪れた。
「1990年代初め、サンディカ・パリクチュール校校長のマダム・ソーラが私の店でドレスをご覧になり、『着物地や帯地は世界の文化遺産。あなたは日本の伝統の伝え手です。パリでショーをするなら全面的に応援したい』と言ってくれたんです。この言葉に感激した私は、『一発勝負してやろう』と、1997年のパリコレ(パリオートクチュールコレクション)への参加を決めました」
プレタポルテ(※フランス語で「高級既製服」という意味。ちなみに、オーダーを受けて作る「高級仕立服」をオートクチュールという)と違い、オートクチュールのコレクションは、オートクチュール組合に認められなければ、どんなに著名なデザイナーでも参加できない。当時、日本で唯一、ショーの開催が認められていたのは森英恵さんのみだったという。
「マダム・ソーラの尽力で私の参加が決まったとき、森さんにご挨拶に行きました。『どのくらいのスケールでやってらっしゃるの?』とおっしゃるので『10人ほどです』と答えると、森さんは『私もそんなときがあった。いちばん楽しかったわ』と、しみじみおっしゃったのが印象に残っています。
ショーの翌日、フランスの名門紙『フィガロ』に紹介されたときは、私より周りの人が驚いていたわね」

この成功を機に、モナコ、ニューヨーク、フィレンツェと海外でのショーの招聘が舞い込み、70代から「ハルミ・フジモト」の活躍が始まった。さらに2018年、91才で再びパリコレに参加。フランス旅での挫折から生まれた日本人のためのドレスが、欧米で称賛されたのだ。

流行は繰り返されるが、藤本さんの服作りはその対極にある。
「私はね、時代を超越した素材で自分がいいと思うものを作りたい。流行りものを作りたいと思ったことはないの。何より個性的であることが大事だから。
流行りものはおしゃれかもしれないけれど、個性的じゃないでしょう? 個性的である方が、ファッショナブルより上ですよね」


周囲に刺激を与える発光体ギャル
藤本さんのドレスをこよなく愛したひとりが、作家の田辺聖子さんだ。
「知人から『藤本さんと会わなかったら、おせい(田辺)さんはピンクと赤の服ばっかり着ていたよ』と言われました(笑い)。
田辺先生は、あるショーのプログラムに寄稿してくださった文章の中で、私を『周囲に刺激を与え続ける発光体ギャル』と形容してくださいました。とてもうれしかったわねえ」


撮影中、藤本さんに「にっこり笑ってください」と言うと、「しわができるから、いやや」と、おおらかに笑う。改めて元気の秘訣を伺うと、
「ストレスがないこと。それと、ちょっとしたことでも身を構う気力は大事。私、今日の取材のために、昨晩お風呂でパックしてきたのよ。でもそれは自分のため。自分が気持ちよくありたいでしょう。あとは姿勢。いつも肩を引くようにしています。どんないい服でも姿勢が悪かったら台無しよ」
生涯現役とまでは考えられないというが、日々勉強する姿勢には頭が下がる。
「もうこの年やし、いつ心臓が止まるかわからへん。でも、発想力は枯れていないね。なぜなら、毎日ファッションの勉強をするし、新聞やニュースも見ますよ。
私はね、いまの時代を生きていたいんです。今日どんなことが起こり、世界がどうなっているのか。いまを知らないと若い人とも会話ができないでしょう?」
いま、いちばんのモチベーションは大谷翔平選手。
「大谷さん、とっても尊敬しているのよ。あんなに賢い子いないでしょう? いつかお会いしたいわあ」
そう話す藤本さんはまるで少女のよう。
「私のまわりには、世代を超えた“藤本応援団”がたくさんいるの」とも。田辺さんが形容したように、“永遠の発光体ギャル”なのだ。
◆藤本ハルミ
ファッションデザイナー。1927年、神戸市生まれ。1954年、神戸に洋裁店「オートクチュール・マーガレット」を開店。1997年、70才でのパリオートクチュールコレクションへの参加を皮切りに、モナコ、ニューヨーク、フィレンツェでショーを行う。20年後となる2018年、再びパリオートクチュールコレクションに参加し、現在も現役で活躍中。
取材・文/佐藤有栄
※女性セブン2025年1月1日号