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「親の死に目に会いたい」──多くの人が望み、また当然実現すると思っていることだろう。苦労をして自分の夢を支えてくれた最愛の母ならなおさらだ。しかし、野口五郎(69才)はあえてその道を選ばなかった。そこには母との深い絆、歌手としての矜持があった。
コンサート2日目を終えてから母の訃報を知る
「もし母に何かあっても、コンサートが終わるまでは何も言わないでくれ」。今年、デビュー55周年を迎える歌手の野口五郎。節目の年のスタートとなる大切なコンサートの直前、彼は妻の三井ゆり(56才)に、きっぱりとこう告げたという。
「野口さんにとってお母さんは、苦労をしながらも歌手になる夢を応援し続けてくれたかけがえのない存在。“何も言わないでくれ”という言葉は、最愛の母のためにも全力でコンサートをやり切るという、強い決意の表れだったのだと思います」(音楽関係者)
2月23日、69才の誕生日を迎えた野口。例年この時期に行われる野口のバースデーコンサートが、2月18日、19日の2日間にわたって行われた。
「生バンドに加え、NHK交響楽団のソリストたちとも共演。来年古希を迎えるとは思えないような圧巻の歌声を披露していました。いつも以上に感情がこもっていて、どこか鬼気迫るような雰囲気も感じられる“絶唱”でした」(コンサートを鑑賞した人)
最愛の母・伊代子さんが、98年の生涯に幕を下ろしたのは、初日の公演が始まる2時間ほど前のことだった。
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「伊代子さんは最近、体調が思わしくなく、年齢的にもいつどうなるかわからないという状況でした。野口さんはすごく心配していましたが、だからといって大事なコンサートを休むという選択肢は彼にはなく、プロとして完璧な歌を届けなければいけない。動揺することなくステージに集中するために、周囲に“コンサートが終わるまでは何も言うな”と伝えていたんです」(芸能関係者)
冒頭の言葉通り、野口が母の死を知ったのは、コンサート2日目を無事に終え、舞台を降りてからだったという。
「妻のゆりさんはもちろん、息子さん、娘さんも伊代子さんが亡くなったことを知っていましたが、野口さんに悟られることがないよう、必死に努めていたそうです」(前出・芸能関係者)
野口は今年2月に出版された自伝『僕は何者』(リットーミュージック)の中で、歌手という仕事について《両親が僕に託した夢》と綴っている。
「何があっても歌うことを最優先する。たとえ親の死に目に会えなくても、それは“親子で歌手を目指したときから決めていたこと”という覚悟で、野口さんはステージに臨んだようです。“お母さんも、きっとわかってくれている”との思いだったのでしょうね」(前出・音楽関係者)
一時は歌手の夢を諦めかけるも母のために
野口は1956年、岐阜県美濃市に生まれた。父は公務員、母は美容師として働いていたが、両親の歌の実力は地元ではつとに有名だったという。
「お父さんは戦時中にプロ歌手になるチャンスがありましたが、召集令状が届いたため夢を断念。お母さんも大手レコード会社からデビューする話がきたものの、家族の反対で泣く泣く諦めたそうです。ふたりは揃って地元のアマチュア楽団で歌い続けていました。野口さんは小さい頃から、母が口ずさむ歌を聴いて育ってきた。“ビブラートは母に教わった”と明かしたこともありました」(地元の知人)
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そんな両親から才能と技術を受け継いだ野口は、小さい頃からのど自慢大会などに出場。それが美空ひばりの『リンゴ追分』などの作曲で知られる米山正夫氏の目に留まり、歌手を目指して上京したのは中学2年生、13才のときだった。伊代子さんは美容院を知人に託し、野口に付き添うために岐阜を離れた。
「台東区で印刷工場を営んでいた親戚を頼り、住み込み従業員用の4畳半一間の部屋に2人で住まわせてもらったそうです。美容師としての生活から一転、伊代子さんは工員さんたちの食事作りや洗濯、荷物運びなどをし、夜は洋服の仕立ての内職で生活を支えました。お父さんも月に1回、仕送りを届けに岐阜から来てくれたといいます」(前出・地元の知人)
ところが折悪く、上京から2週間目に変声期が訪れ、自慢だったソプラノボイスが出なくなってしまう。野口は打ちひしがれ、一時は歌手の夢を諦めかけた。
「でも、自分を支え続けてくれている母のためにも、ここで投げ出すわけにはいかない。野口さんは時にはのどが破れて血が出ることがありながらも、基礎となる発声練習を続けました」(野口の知人)
学校を終えた後に歌のレッスンに通い、夜は音楽とギターの練習に明け暮れるという日々は、その後2年も続いた。
「いてくればいい、元気でいてくれれば」
努力が実り、1971年、15才で念願のデビュー。2曲目の『青いリンゴ』が大ヒットし、1972年には当時の史上最年少でNHK紅白歌合戦出場を果たす。西城秀樹さん(享年63)、郷ひろみ(69才)と共に「新御三家」と呼ばれ、トップアイドルの仲間入りを果たし、その後も第一線で活躍し続けている。今年、歌手生活55年目を迎えた。
「いまや大御所としての風格も漂う野口さんですが、苦労をいとわず支えてくれたお母さんには頭が上がらない。自他共に認める“マザコン”なんです」(前出・野口の知人)
伊代子さんは近年、認知症を患い、介護施設に入所。野口は母のもとを訪れる様子を自身のブログで頻繁に報告してきた。今年1月22日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演した際にも「母はいまは認知症が進んで、施設の方に入っているんですけど」と明かしている。
「野口さんが、言葉を発することもできなくなっているお母さんのおでこに頭をつけて“いてくれればいい、元気でいてくれればそれでいい”と声をかける。その映像を見た黒柳さんが“なんて、あなた優しいんでしょう”と声を詰まらせる場面もありました」(テレビ局関係者)
コロナ禍で長く会えない時期を乗り越え、最近も、野口は足繁く母のいる施設に通った。しかし、最期の時を共に過ごすことは叶わなかった──。
「死に目に会えない覚悟はしていたとはいえ、大きな喪失感に苛まれているはず。何せ“一卵性母子”と言われていたほどですから。通夜が営まれた2月23日は、野口さんの69回目の誕生日。彼はそこにも運命のようなものを感じていたようです」(前出・芸能関係者)
共に夢を追った母との約束を胸に、これからも歌声を響かせ続ける。
※女性セブン2025年3月13日号