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【“消えたコメ問題”に天皇陛下もご心配】歴史的高騰の「コメ」と「皇室」の切っても切れない深い関係

皇居の水田で稲刈りをされる天皇陛下(2024年9 月/宮内庁提供)
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歴史的なコメ価格の高騰が続く中、政府が放出する備蓄米の入札が、3月10日に開始された。落札後、3月下旬頃から店頭に並ぶ予定だが、コメ価格への影響は不透明で、値上がり前の価格に戻るまでには至らないというのが大方の予想だ。JA農協などのコメの集荷量は2024年末時点で前年より21万トン減ったと言われており、“消えたコメ”問題にも発展。政府やコメ農家、そして消費者を巻き込んだ令和の“コメ騒動”はいまだに沈静化していない。

日本人にとって、コメは“国民食”と言っていいものだ。値上がりの家計への負担は大きく、コメの買い控えをしたり、もち麦を混ぜて白米のみで炊く日を少なくするといった“対策”をしている家庭もあるという。

そういった状況に心を痛めているのは、他ならぬ天皇陛下だろう。

「陛下は“国民食”であるはずのコメが、これまで通り食卓に並ばないという国民生活への影響に心を痛められ、心配されていることでしょう。それほど皇室とコメは、歴史的に見ても密接に関係していましたから」(皇室記者)

皇室解説者の山下晋司氏が話す。

「天皇が国を治(しら)す根拠は『日本書紀』による神話の世界にあります。そこに皇室の祖神とされている天照大御神(あまてらすおおみかみ)が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上に送る際、高天原で作った清らかな稲を渡し、“民が飢えないようにコメを作り、国を治しめるように”と伝えたという話が記されています。代々の天皇が大嘗祭や新嘗祭で神々に新穀を供え、国の安寧と五穀豊穣を感謝、祈念するのはそういった背景があるためです」

毎年5月、陛下は皇居内にある水田でお田植えをされ、秋には自ら収穫される。230㎡ほどと決して広くはないその水田は、昭和初期に作られたものだ。

「皇居内の稲田は1929年に、昭和天皇の赤坂離宮から皇居へのお引越しに伴って作られました。昭和天皇は1927年に赤坂離宮内で稲作を始められました。農事奨励の側面もあったとは思いますが、主目的は品種改良などの実験でした。日本人の主食であるコメの豊作のために品種改良は必須であり、天皇も自ら研究されていました」(山下氏)

コメが国民にとって大事な主食であるため、「生産に携わる人の苦労と、収穫の喜びを体験したい」という気持ちもあったとされる。

昭和天皇の時代には、「愛国」「神力」「亀の尾」といった品種が育てられ、のちに「コシヒカリ」「ナオザネモチ」といったうるち米やもち米の品種が加わった。現在は「ニホンマサリ」「マンゲツモチ」という2種類が育てられている。

「上皇さまの時代に移ると、田植えと稲刈りのみならず、苗を作る前段階の種まきから参加されるようになり、陛下に引き継がれました。皇居内を散策される折、生育の様子を気にかけられているといいます」(前出・皇室記者)

皇居の水田で作られたコメは、一部は伊勢へ運ばれ10月の神嘗祭に奉納され、11月の宮中祭祀である新嘗祭で神にお供えする神饌(しんせん)にも用いられた。新嘗祭では、白酒、黒酒に醸造されて備えられもする。また、天皇ご一家の食卓に並ぶこともあるとされる。

そして、連綿と引き継がれてきた稲作の精神は、皇室の次代にも繋がっていく。

「上皇さまが退位される前年のお田植えには、天皇ご一家、秋篠宮ご一家が総出で参加されました。秋篠宮邸の庭にも小さな水田が整備されたこともあった。皇室の皆さまに、お気持ちが脈々と受け継がれている証拠でもあると思います」(前出・皇室記者)

弥生時代には、すでに稲作が始まっていたとされる。コメ食は、日本人の精神性の象徴でもある。一刻も早く、日常の食卓風景が戻ってくることを、陛下も望まれていることだろう。

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