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《人生を変えた言葉》山本譲二「オヤジの言葉を聞いて父と母は安心して故郷に帰ったはず」 今でも忘れられない恩師・北島三郎の言葉 

恩師・北島三郎の言葉を今でも忘れられない演歌歌手の山本譲二
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運命を変えた言葉、自分に自信を持つことができた一言……相手からすると何気ない言葉だったかもしれないが、言われた本人の心にはいつまでも残り、支えになっている。「あの人がいてくれたから、いまの私がいる」──。演歌歌手の山本譲二(75才)の人生を変えた恩人は、北島三郎(88才)だ。

「オヤジの優しい顔に惚れたんです」

そう語る山本。「オヤジ」とは山本が慕う北島三郎のことだ。山本と北島の出会いは、1974年。幼い息子を連れて買い物をする北島の姿を偶然目にしたときだった。

「東京・中野のブロードウェイで人だかりがあり、ふと目を向けたらオヤジがまだ幼い長男の手を握って歩いていたんです。そのときの優しい父親の顔にグッときました」(山本・以下同)

18才で山口から上京して以来、売れない不遇の時代を過ごしていた山本は“一目惚れ”した北島への弟子入りを志願して、公演先の楽屋の前に立ち続けた。

「10日間立ち続けたら“何かスポーツやっていたのか?”とオヤジに声をかけられました。“野球で甲子園に出ました”と答えたら気に入られたようで、“じゃあ明日から来いや”って。それから師弟関係は51年目に入っています(笑い)」

弟子入り後も鳴かず飛ばずが続くなか、北島が弟子たちの家族を呼んで食事会を開いた。席上、北島は山本の両親にこう語りかけた。

「そんなに悩まないでください。山本は絶対に売れますから。心配しないで」

この言葉がいまでも忘れられないと山本が振り返る。

「オヤジにそう言ってもらえて父と母は安心して故郷に帰ったはずです。本当に自信になり、もっとやらなきゃダメだと、その後は死ぬ気でがんばりました」

北島三郎との師弟関係は今年で51年目に入った(提供/山本譲二)
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その翌年の1980年、30才でリリースした『みちのくひとり旅』が発売から10か月かけて大ヒットし、1981年末のNHK紅白歌合戦の出場が決まった。北島は「山本、何でもいいから1つだけ欲しいものを言え」と聞いたという。山本の答えは「オヤジ、お金が欲しいです」だった。

「オヤジは“わかった”と言ってポンと900万円くれました。ウチはすごく貧乏で、20才のときに母さんから“譲二、3万円送って”という手紙が来たけど、手持ちがなくて送れなかったことがずっと悔しくて情けなかった。900万円を握りしめて実家に帰って、600万円を母さんに渡しました。おれにとってあの600万円は、昔送れなかった3万円の代わりでした」

山本からお金を受け取った母親は、肩を震わせてむせび泣いたという。紅白デビューを果たし、売れっ子になったことで心に隙ができ、自分でも気づかないような変化があったのだろう。普段は寡黙な北島は弟子の慢心を見逃さず、こう烈火のごとく怒った。

「おれたちは世間様にかわいがってもらってナンボだ。この人をかわいがりたいという気持ちにならないお前の態度は何だ! 勘違いするんじぇねえ、馬鹿野郎!」

それから北島は「感謝を忘れるな、愛を忘れるな、歌を忘れるな、いつの日も自分の心を鏡に写せ」と書いた色紙を山本に手渡した。

「そのときのおれには感謝の気持ちや応援してくれる皆さんを大事にしようという心がなく、調子こいていた。オヤジに叱られてこれじゃいかんと態度を改め、きちんと感謝を伝えるようになりました」

半世紀以上にわたって苦楽を共にした師匠と弟子。2007年に山本は北島音楽事務所から独立したが、師弟の絆はいまも固く強い。昨年、デビュー50周年を迎えた山本に北島は、「よくがんばったな。でもまだ50年だぞ。上には上がいるから、まだがんばれ!」と声をかけた。そんな師匠に山本が感謝の言葉を述べる。

「おれにとって北島は父親であり、かけがえのない師匠でもある。オヤジがいたからがんばれたし、オヤジからたくさんの徳をもらっていまの自分があります。オヤジに対する感謝の気持ちは死ぬまで変わらないから、いつまでも支えてもらいたいなと思っています」

【プロフィール】
山本譲二/1950年、山口県生まれ。1974年、伊達春樹として『夜霧のあなた』でデビューするも売れず、同年、北島三郎に弟子入り。1981年に『みちのくひとり旅』がミリオンヒット。昨年、デビュー50周年を迎えた。

※女性セブン2025年4月24日号

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