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元おニャン子新田恵利「近所のクレーム」「ファンの暴走」から「体を張って守ってくれたのは母でした」【独占インタビュー『母を語る』前編】

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人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。タレント・新田恵利(56才)の独占告白、前編。

「高齢出産の末っ子」で厳しく育てられた

1968年、新田が生後4か月の頃。母・ひで子さんに抱かれて
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「母を一言でいうなら社交的でアクティブな人。楽天家で、旅行やおしゃれが好きな、自慢の母でした」(新田恵利・以下同)

4年前、92才で他界した母・ひで子さんのことをそう語るのは、タレントの新田恵利(56才)。その表情は晴れやかで、「いまでもママが大好き!」という思慕にあふれていた。

ひで子さんは、頼れる母であると同時に新田のよき理解者だったと続ける。

「私の両親は再婚同士で、父が56才、母が39才のときに私が生まれました。10才年上の姉と3才年上の兄がいるのですが、私は“しまいっ子”(末っ子)だったせいか、両親にとっては強い思い入れがあったようです。特に母は当時では珍しい高齢出産だったこともあり、自分たちがいなくなっても生活できるようにと、生きていくために必要な家事や炊事を小学生の頃から教えてくれました。友達と遊びに行く約束をしても、家族全員分の洗濯が終わっていないと行かせてもらえない。父親のふんどしやさらしの腹巻などは、予洗いしてから洗濯機に入れないといけません。腹巻は長いから、ほかの洗濯ものと絡んでしまって、干すときは大変でしたよ(笑い)」

それほど厳しくしつけられたが、自分たちが亡くなっても困らないようにとの親心だったことは、新田もよくわかっていたという。

「家事炊事も厳しく強要されたわけではなくて、お料理はごく自然に教わりました。台所には私専用のイスがあって、母が夕食の支度に台所に立つと、私はそのイスに座って一日の出来事を報告します。ときどき私も食材を切ったり、お鍋をかき回したりしてお手伝い。そうすることで料理を学び、母の味を覚えていきました。料理の合間に、“お友達に話を聞いてほしかったら、まずはお友達の話を聞いてあげることよ”などと教えてくれ、母自身も毎日、私の話に黙って耳を傾けてくれました」

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