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雅子さま、周囲に漂う不穏な気配 戦後80年の慰霊の旅に苛烈な抗議、全国植樹祭は直前になって体調不良でご欠席…それでもご覚悟をもって戦災の地へ

重要なお務めが続く夏になる雅子さま(2025年4月、東京・渋谷区。撮影/JMPA)
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平成流と令和流──時代の変遷によって、天皇皇后の公務への取り組み方には違いがある。しかし一貫するのは、「先の大戦」の犠牲者と傷ついた人々に寄り添おうとする姿勢だ。そのお気持ちを受け継ぐ雅子さまの前に、障壁が立ちふさがろうとしている。

天皇皇后両陛下の結婚の儀は、1993年6月9日に執り行われた。以降、結婚記念日には、上皇ご夫妻や秋篠宮ご一家をお招きになり、ささやかな食事会が開かれるのが慣例になった。結婚25周年の「銀婚式」(2018年)のときには、食事会後に両陛下と交友のあるピアニストとバイオリニストを招いてのミニコンサートも行われた。

「祝福されるお立場でありながら、両陛下はホスト役でもあります。かつては上皇ご夫妻をお招きするとあって、雅子さまのお顔に緊張の色が浮かぶこともあったといいます。それでも平成の終わり頃になると、お料理やテーブルコーディネートに雅子さま流のアイディアを反映させるなど余裕が出てきました。その“企画力”が発揮された1つがミニコンサートでした。食事会は年を追うごとに和やかな雰囲気を増していったといいます」(宮内庁関係者)

ところが今年、32回目の結婚記念日を前にして、不穏な気配が漂っていた。

今年は戦後80年。両陛下にとっては、令和が始まってから初めて迎える「周年」だ。それを物語るように、「慰霊の旅」が立て続けに行われる。4月には「玉砕の島」として知られる小笠原諸島の硫黄島を訪問された。6月には沖縄と広島へ、9月には長崎へのご訪問が予定されている。どこも先の大戦で悲劇に見舞われた地だ。また、7月上旬にはモンゴルを公式訪問される。

硫黄島で花を手向けられた両陛下(2025年4月、東京・小笠原村。撮影/JMPA)
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「両国の国交樹立50年だった2022年にモンゴルのフレルスフ大統領が来日して両陛下と会見し、招待を受けたことが背景にあります。あまり知られていませんが、モンゴルは終戦後に日本人捕虜が旧ソビエト経由で抑留された場所であり、約1700人が命を落としました。慰霊碑も設けられており、7月の両陛下のご訪問時に慰霊碑に花を手向けられることも検討されています」(皇室記者)

その土地土地で、雅子さまは戦争の犠牲になった魂と、傷ついた人々の心に寄り添われようとするだろう。しかし、「慰霊の旅」が各地で手放しに歓迎されているわけではない。被爆者の子や孫で構成される「山口被爆二世の会」は5月18日、両陛下の一連の「慰霊の旅」に抗議する決議文を採択した。

《戦争責任・戦後責任を清算する行為としてある「慰霊の旅」を絶対に許さない。》

決議文にはそう綴られていた。また、6月訪問予定の広島県では歓迎ムードが高まる一方で、昭和天皇の戦争責任を追及する市民共同声明が、「8.6ヒロシマ平和へのつどい2025実行委員会」から発表された。

沖縄は「空白地帯」

慰霊の旅をめぐっては、そういった苛烈抗議のように天皇の戦争責任を問う声が常に上がっており、ショッキングな事件につながったこともあった。

1975年、上皇さまと美智子さま(当時は皇太子ご夫妻)が沖縄に足を運ばれた。戦後、昭和天皇は8年半をかけて全国各地を訪れたが、アメリカの統治下にあった沖縄は“空白地帯”だった。そこに戦後初めて皇室として足を踏み入れられたのが上皇ご夫妻だった。沖縄返還から3年が経過し、沖縄国際海洋博覧会開催に合わせてのご訪問だったが、県内では抗議の声が多く上がっていた。事件は「ひめゆりの塔」(糸満市)の近くで起きた。

「献花のために同地を訪れた上皇ご夫妻に向かって、数日前から近くの壕に潜んでいた男が火炎瓶を投げつけたのです。幸いなことにご夫妻には当たりませんでしたが、献花台が炎を上げて燃え、美智子さまは打撲を負われました。

その時点で、すべての予定を取りやめ、早々に帰京してもおかしくない蛮行でしたが、上皇さまはその日の夜、異例とも言える平和への思いを込めた談話を公表。ご夫妻はその後、予定されていたすべての日程をつつがなくこなされました」(皇室ジャーナリスト)

至近距離から火炎瓶が投げつけられた。写真奥、中央の白い帽子が美智子さま。その左が上皇さま(1975年7月)
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そうした事態に直面した上皇ご夫妻だったが、平成を迎えてからも幾度となく沖縄を訪問された。皇太子時代を含めて11回足を運び、そのたびに深く祈りを捧げられてきた。最後のご訪問は退位を約1年後に控えた2018年3月だった。

「戦争の記憶が薄れようとしている今日、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や歴史が伝えられていくことが大切であると考えております。(中略)私と雅子は戦後生まれで、戦争を体験していませんが、上皇上皇后両陛下の戦時中のご体験のお話など、平和を大切に思われるお気持ちについて、折に触れて伺う機会がありました」

今年2月、陛下は65才の誕生日に先立つ記者会見で、そう話された。

雅子さまの頭に蝶がとまり、笑顔が弾けた両陛下(1998年8月)
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「両陛下は戦後生まれです。しかし、戦禍を他人事だとは微塵も思われていません。沖縄戦終結の日、広島、長崎への原爆投下の日と終戦記念日には必ず黙祷を捧げられてきました。その姿勢は、愛子さまにもしっかり受け継がれています。

雅子さまは、慰霊の旅を快く思わない人がいることは充分にご理解のはずです。しかし、責任感は揺らぐものではありません。雅子さまは、いろいろな意見があることを承知したうえでご覚悟をもって戦災の地へ降り立ち、犠牲者に心を寄せられるのでしょう」(別の宮内庁関係者)

御代がわり以降、地方にお出かけになるたびに大歓迎を受けてきた雅子さまにとって、逆風が予想される慰霊の旅は普段とは異なる緊張感が伴うだろう。

さらに別の懸念材料もある。それは雅子さまのご体調不安だ。雅子さまは5月24・25日の1泊2日の日程で、埼玉を訪問されるはずだった。天皇皇后の「四大行幸啓」の1つに位置づけられる「全国植樹祭」への臨席のためだった。

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