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NHKでもドラマ化!経営未経験の主婦だった諏訪貴子さん、父の急逝で「会社を継ぐ」決断をした理由

諏訪貴子さん
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切削研磨加工を専門とするダイヤ精機は、中小製造業が集まる東京・大田区の町工場。代表取締役社長の諏訪貴子さん(51歳)は、2004年に急逝した父親を継いで主婦から2代目社長に就任しました。当時32歳だった諏訪さんは経営の知識はありませんでしたが、困難を乗り越え傾きかけていた会社を立て直しました。その体験は、NHKでドラマ化(『マチ工場のオンナ』)され、昨年には政府の「新しい資本主義実現会議」のメンバーにも選出。そんな諏訪さんに、“歳を重ねながら前向きに生きる術”をうかがうインタビュー。第1回は、社長になるまでの経緯を語ってもらいました。

跡を継ぐとは思わず、プロの司会者になった

「父が亡くなり、『社長になってほしい』と周囲から言われたときは、すでに結婚して6歳息子がいました。ダイヤ精機は父が創立した会社です。父は息子を2代目にするつもりでしたから、私が社長になるとはまったく思っていませんでした。今となっては、社長を20年近く続けられていることに驚いています」(諏訪さん・以下同)

そう話す諏訪さんは、東京都大田区の“町工場の娘”として生まれた。ダイヤ精機がある東京都大田区は、ドラマ『下町ロケット』(TBS系)の舞台になったことでも知られる小さな製造所が立ち並ぶエリアだ。幼い頃から工場は身近な存在で、よく社員に遊んでもらった記憶があるという。

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父から兄の代わりのように育てられたそう
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「私には8歳上の兄がいましたが、私が生まれる2年前に白血病で亡くなっています。そのため、私は父から兄の代わりのように育てられました。父から跡を継いでほしいと言われたことは一度もありませんでしたが、『大学は工学部でないとお金を出さない』と言われていたので、工学部を卒業して自動車部品メーカーでエンジニアとして働き始めました」

だが就職して2年で結婚・出産を機に退職し、専業主婦となった。

「出産後は育児をしながらしばらく過ごしていましたが、専業主婦はすぐに飽きてしまいました。息子を生んだので、会社の跡取りの心配はありません。肩の荷も下りて、まったく違う仕事をしたいと考えました。できるだけ早く社会復帰をしたくて、まだ赤ちゃんだった息子を寝かしつけて、夜中にパソコンに向かって、必死でブラインドタッチの練習をしていました(笑い)。

そのうち、父から会社を手伝ってほしいと頼まれ、ダイヤ精機に入社して、総務として父の仕事をサポートするようになりました。調べてみると、経営状態がかなり悪化していることが分かって、父に業務改善が必要だとリストラを提案したんです。すると父から『リストラをするなら、お前がやめろ』と言われて私がクビになってしまいました。その後、もう一度父に呼ばれて入社したのですが、再度リストラの必要性を訴えたところまたクビになりました(笑い)」

同時期、まだ幼い息子の子育てと両立できる仕事を探していた諏訪さんは、結婚式の司会者になろうと専門学校に通い始めた。

モチベーションを維持できなくなった

「大学時代にアナウンサーになりたいという憧れがあったのですが、人前で話すことは苦手でした。せっかくなら苦手なことにチャレンジしようと考えて、司会を学べる専門学校に通いはじめました。卒業後はオーディションに合格し、プロの司会者として週末は結婚式の司会をしていました。土日は夫が家にいるので、家庭と両立しやすかったです」

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モチベーションを維持できなくなったという
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だが、せっかく手にした司会の仕事を2年で辞めてしまう。

「司会者を目指したきっかけが、人前で話すことの苦手意識を克服することだったので、プロになれた時点でモチベーションを維持できなくなってしまったのです。“結婚式で新郎新婦の幸せな笑顔を見たい”とか“司会で人を幸せにしたい”という目標を持っていれば、もっと長く続けられたのかもしれません」

突然、父親が亡くなり主婦から社長に

主婦として生活していた諏訪さんだったが、息子が5歳になって子育てがひと段落つきかけた頃、父親に肺がんが見つかった。入院した父親は引き継ぎをする間もなく亡くなり、周諏訪さんは周囲から「社長をやってほしい」と依頼される。

「その頃、ちょうど夫のアメリカ転勤が決まったばかりでした。家族で引っ越すつもりでしたので、どうすべきかかなり悩みました。選択肢は“引き受ける”か“引き受けない”の2択しかないし、社長をするなら後戻りはできない。これまでの人生で一番悩みました」

父は短くても太い人生だった

悲しみに浸る間もなく重要な決断を迫られた諏訪さんは、“自分が後悔しない道”を選んだ。

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“自分が後悔しない道”を選んだ諏訪さん
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「アメリカに行こうと思えばいつでも行けるけれど、ダイヤ精機の社長はこの機会を逃せばなれません。夫についていくと、必ず後悔すると思ったんです。もちろん、父の死後も社員が残って、私を支えてくれることも大きな後押しになりました。

父は64歳で亡くなりました。その人生は決して長くありませんでしたが、娘の私から見ると短くても太い人生だったと思っています。亡くなったときの父の顔はとても安らかで、自分の人生をやり切ったのだと伝わってきました。私も父のように、後悔せずに楽しかったと思える人生にしなきゃと思ったんです。そしてなにより、父が大事にしていたダイヤ精機を残したいという気持ちになりました」

夫と6歳の息子が、全面的に支えてくれた

そんな諏訪さんを、夫は全面的に応援してくれたという。諏訪さんは息子と日本に残って社長になり、夫は単身でアメリカに行くことになった。

「最初、主人は社長になることを反対していました。というのも製造業の町工場は男社会です。とくに当時は女性の社長なんて珍しかったし、経営も知らないし、仕事のブランクもありました。従業員もほぼ知らない人ばかりで、私が社長として会社を引っ張っていけるのかをすごく心配してくれたんです。ただやると決めてからは、応援してくれました」

息子は「想像以上に大人に」

息子はまだ小学校1年生。家を空ける時間が多くなることも不安だったが、息子は親が想像する以上に大人になっていた。

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「私が知らないところで、単身赴任する夫から『お母さんはお前が支えなきゃだめだよ』と言われていたようです。彼なりに自分の立場を理解して、ずっと私を守ろうしてくれていました。

専業主婦だった私の母が、子供に留守番をさせて働くことに反対したこともありました。そんなときに息子は、『お母さんは仕事で頑張ってるから、寂しくなんていないよ』とかばってくれました。

子供って親が思う以上に強くて、成長しているんですよ。その年の年末、夫がいるアメリカに息子と出かけたときは驚きました。24時間以上の長旅で疲れているはずなのに、飛行機を乗り継ぐ際に、私の荷物まで持とうとしてくれたんです」

大事にしたのは、息子と過ごす時間

社長就任後は朝9時から夜6時までは工場で働き、付き合いなど社外での仕事もある。そんな激務が続くなか、諏訪さんが大事にしていたのは息子と過ごす時間だ。そこには、幼いころの諏訪さんが父親と過ごした時間が投影されていた。

「父も忙しくてほぼ家にいない人だったので、家族みんなで食事をとれたのは年に数回だったと記憶しています。それでも父に愛されていたと感じるのは、家にいるときは『貴ちゃん、貴ちゃん』とものすごくスキンシップをとってくれたんです。だから私も子育てしていくうえで、子供といる時間の長さよりも愛情の深さが大事だと思い、自宅にいるときはスキンシップをとりまくりました。

社長になって間もない頃はとにかく忙しく、今でいうワークライフバランスを取ることが難しかったです。でも時間がないというのは言い訳にすぎません。時間を作ろうと努力しました。できるだけ早く動いて、今できることはすぐに手をつける。睡眠時間が4時間の日もありました。食材宅配も活用して時短も心がけていましたね。とにかく必死でした」

◆ダイヤ精機代表取締役・諏訪貴子さん

諏訪貴子さん
諏訪貴子さん
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すわ・たかこ。1971年生まれ。ダイヤ精機株式会社代表取締役。1995年に成蹊大学工学部を卒業後、自動車部品メーカーにエンジニアとして入社。ダイヤ精機に2度入社するが、経営方針の違いから父に2度解雇される。2004年、父の逝去をきっかけに社長に就任し、業績を順調に回復させる。日経ウーマンの「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2013」 大賞(リーダー部門)を受賞。著書に『町工場の娘』(日経BP)、『ザ・町工場』(日経BP)があり、NHKでテレビドラマ化された。2021年には、岸田内閣「新しい資本主義実現本部」の有識者に選ばれ、日本郵政の社外取締役も務める。http://www.daiyaseiki.co.jp/profile/

撮影/黒石あみ 取材・文/戸田梨恵

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