
凄腕の殺し屋キル・ボクスン(チョン・ドヨン)は、同業者たちの若者たちから尊敬と憧れをほしいままにする偉大な存在だが、家に帰れば思春期の娘との関係に悩むシングルマザーでした。2023年春に配信開始して以来、話題を集めるNetflix映画『キル・ボクスン』を、韓国ドラマや映画などに詳しいライター・むらたえりかさんが解説します。(レビューはネタバレを含みます)
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育児より殺人のほうが単純?
仕事と子育ての両立。母親たちの悩みを「殺し屋のシングルマザー」という設定で描いたのが、3月31日から配信中のNetflix映画『キル・ボクスン』だ。
主人公のキル・ボクスン(チョン・ドヨン)は、どんな依頼も失敗しない凄腕の殺し屋として活躍している。男女問わず、殺し屋志望の若者たちの憧れの的だ。しかし、家庭では思春期の娘の態度に悩むシングルマザー。娘のジェヨン(キム・シア)はボクスンに壁をつくり、隠しごとをしている。
「育児より殺人のほうが単純」とボクスンは言う。SNSで、幼い子どもを育てる母親たちが「仕事をしていたほうが楽だ」とこぼす投稿と重なる部分があると感じた。

韓国映画を見るぞと気合いを入れて見はじめると、最初のシーンの日本語に驚く。映画『ユア・マイ・サンシャイン』(2005年)のファン・ジョンミンが、神戸の暴力団幹部「織田真一郎」役でゲスト出演しているのだ。ファン・ジョンミンが日本語を話している姿はなかなかレア。
ボクスンは、暗殺請け負い業者「MKエンターテインメント」に所属している。代表のチャ・ミンギュ(ソル・ギョング)は「殺人はいまや世界的なビジネスなのです」と演説する。大した収入にはならないものから、政治家やマフィアが関わるAランク案件まで、MKエンタにはさまざまな殺人の依頼が舞い込んでくる。
「殺人をしながら子育てなんて、矛盾しているわね」
学校でクラスメイトに怪我をさせたジェヨンと上手く向き合えないボクスンは、隠してはいるものの、自分の仕事のせいで娘に悪い影響を与えているのではないかと悩みはじめる。お互いに隠しごとをしているボクスン、ジェヨン親子。本当は正直でいたいと思っているふたりが、自分自身がつくり出した壁を壊しながら歩み寄っていく。

主人公のボクスンを演じるチョン・ドヨンは、ドラマ『イルタ・スキャンダル~恋は特訓コースで~』で明るく真っ直ぐな母親を演じていた。50歳にして、今回アクションに初挑戦した。脚本、監督を担当したのは、映画『名もなき野良犬の輪舞』(2017年)や『キングメーカー 大統領を作った男』(2022年)のビョン・ソンヒョンだ。

稼げないのは自分たちが弱いせい
ボクスンが所属しているMKエンタは、暗殺業界最大手だ。第一線で活躍しているボクスンは、大手企業のキャリアウーマンといったところだろうか。業界を牛耳り、勝手に業界内ルールまで決めてしまうMKエンタの影響力はかなり大きく、不満を持つ殺し屋も多い。
MKエンタの後輩であるハン・ヒソン(ク・ギョファン)も、なかなかAランク案件を担当させてもらえないことにフラストレーションを抱えている。ボクスン、ヒソンと仲が良い殺し屋仲間たちは、大手のMKエンタが勝手なルールをつくったせいで、自分たちには報酬が安い案件しか回ってこないと愚痴をこぼす。

不満ばかりの彼らに対して、ボクスンは「私は有能なの」と言っていた。稼げないのは自分たちが弱いせい、いわゆる自己責任論だ。そんなボクスンも、ジェヨンとのコミュニケーションや、MKエンタ訓練生のキム・ヨンジ(イ・ヨン)との関わりのなかで、考えが変わっていく。
ヨンジの立場の変化には、K-POPアイドルの境遇が重なる。殺し屋デビューを目指して訓練生として鍛錬するヨンジは、デビューを目指すアイドル練習生のようだ。スターである先輩の背中を必死に追いかけるが、上の方針でデビューを取り消されたり、デビューをちらつかせられて意に沿わない仕事をさせられたりする。才能があって努力もしているヨンジが、MKエンタに振り回されていく。そんな中で、ボクスンがさりげなくヨンジの殺しの腕を認める場面がある。見逃さないでほしい。

ボクスンを疎ましく思っているMKエンタ理事のミニ(イ・ソム)は、ヒソンや仲間たちにある指示を出す。ボクスンに関するその指示に従うかどうか、ヒソンたちは選択を迫られる。
個人としてボクスンを尊敬する気持ちに噓はない。けれど、長いものに巻かれなければこの先生きていく希望が持てないし、いまの生活もいっぱいいっぱいだ。弱い者は、不条理な業界のルールや圧力によって追い込まれる。彼らを見て、ボクスンはまた自分の生き方を考え直す。

冒頭の織田とのシーンで、ボクスンは「子どもに教えられることもある」と話していた。子どもとは、自分の娘だけでなく、後輩のヒソンたちや訓練生のヨンジのことも含まれているのだと思う。
「稼げないのは弱いから」と自己責任論を振りかざしていたボクスン。だが、慣習やルールに抗おうとした下の世代を見て、自分がいつの間にか彼らを抑圧する側に立っていたと気づく。この気づきが、クライマックスにかけてボクスンの人生を変えていく。

韓国と日本に関わる2つのポイント
ファン・ジョンミンが演じた日本ヤクザ・織田に加えて、もうひとり日本に関わる人物が出てくる。ジェヨンが学校のディベートで「10万ウォン札ができたら誰を肖像にするか」を話し合う。その話題の中で名前が挙がった「論介(ノンゲ)」という女性だ。
論介は、李氏朝鮮時代に文禄の役で夫を亡くした。その恨みから、日本の武将を道連れにして川に身投げしたという。日本では馴染みがないが、韓国では国民的なヒロインとして知られている。

映画全体を通して描かれる母と子の関係だが、その中に2つも日本に関わるポイントが出てきた。ボクスンは織田に、娘のジェヨンから「公平性」について教わったことを話す。ジェヨンは論介について「女の人殺しってすごい」と言い、ボクスンを驚かせる。
織田は刀について「女にはわからない」と言っていた。ボクスンが彼の日本刀をどのように扱ったか、最後まで注目したい。

ボクスンと仕事、ボクスンと娘の関係がどこにたどり着くのか。そして、ジェヨンの生き方にどう影響していくのか。エンドロールが流れはじめても、もう少しだけ二人のその後を待ってみてほしい。
Netflix映画『キル・ボクスン』
脚本・監督:ビョン・ソンヒョン
出演:チョン・ドヨン、ソル・ギョング、イ・ソム、ク・ギョファン、キム・シア、イ・ヨン、ファン・ジョンミン
◆ライター・むらたえりか

ライター・編集者。ドラマ・映画レビュー、インタビュー記事、エッセイなどを執筆。宮城県出身、1年間の韓国在住経験あり。https://twitter.com/eripico
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