
「あぁ、やっとこの場所へ戻ってこられた。55年ぶりです。長かった……」
桜も散った4月23日、歌手で俳優の杉良太郎は長崎の街を歩き、そうしみじみ呟いた。初めて訪れたのは1970年、25才の頃だった。当時、杉は日活映画『花の特攻隊 あゝ戦友よ』で主人公の特攻兵を演じ、彼らの苦悩と迷い、決断を歌にした『若き特攻隊員の挽歌(かなしみうた)』をリリース。その曲とともに平和祈願のため、被爆地である長崎と広島を慰問したという。
その折、長崎で生涯忘れられない出会いがあったと振り返る。昼食に、女性がひとりで切り盛りをしている一見、民家の一部のような小さな小料理屋へ立ち寄り食事をした。
「自分より少し年上だったと思う。当時はまだ若かったこともあって人に声をかけたりするのは苦手だったのに、どうしてなのか、そのおかみさんに話しかけたんですよ。『ご結婚されていますか』って。普段はそんなことしないのに。彼女からは返事がなかった。でも料理を出すと『杉さん』と声をかけてきて隣の部屋へ呼ばれたんです」(以下、杉)
そこでおかみさんは着物の裾をちょっとだけめくって、杉に足を見せた。
「こう言ってはなんですが……ひどいケロイドが見えました。で、『これだから結婚できないのよ』と彼女が小さな声で打ち明けたんです。その言葉に私はうんともすんとも、返せなかった。何も言えずにただ部屋を出てきてしまいました。ショックだった。食事も進まず、一緒にいた人たちからどうしたのか聞かれても、答えられなかった」
自分の振る舞いや情けなさにひどく後悔が残った。
「毎年、原爆の慰霊の日には必ず、おかみさんのことも考えていました。忘れたことはありません。それでも、再び訪問はできなかった。それが80才になって人生を振り返った時に“あのおかみさんはどうしているのだろう”と年齢を重ねてやっぱりどうしても気になって」
来るのが遅すぎましたね
3月には日本原水爆被爆者団体協議会の機関紙におかみさん探しの記事を依頼し、翌月には冒頭のように手がかりを求めて杉自ら長崎を訪れた。
「大浦天主堂の近くで急な階段の途中にあった気がする」とのかすかな記憶を頼りに、付近を小一時間探し歩いた。だが、この日は成果が得られなかった。
「自宅の一角を店にした造りで看板もなかった記憶があるし、おかみさんの名前もわからない。あの日は作詞家の川内康範さんなど数名いたけれど、全員亡くなって聞ける人もいない。街の姿も変わっていて当時の面影がなくなっている。来るのが遅すぎましたね……」
現地では、思いがけず当時の新聞を手にすることができた。昭和45年5月の紙面には杉らが、松山町の原爆中心地と平和公園を訪れたことが記されていた。
「その周辺にまた来てみようかと思う。今さら会ってどうするんだと問われたらどうもしない。ただ会うだけです。願いが叶うならば身勝手かもしれないが、『あの時は黙って出てきましたけど』と、お互いが歩んできた人生の苦労話などしてみたい。そこで積年の想いに区切りをつけられたら」