《世界最高齢の女性現役理容師》108才茶寿の箱石シツイさんが語る“長寿の秘訣”「ひるまず、うらやましがらず、あらそわず」関東大震災や空襲を経験し、104才で東京五輪の聖火ランナーに

今年3月、栃木県那珂川町で理容店を営む(※)箱石シツイさん(108才)が、「世界最高齢の女性現役理容師」として、ギネス世界記録に認定された。14才で理容の道に入ってから94年、この道をまい進し、102才までの55年間はひとり暮らしだったという。いまも元気なシツイさんに、心豊かに長生きする秘訣を語ってもらった。
※シツイさんが施設に入居したため、今年4月に事実上閉店。店は現存
72年間、「お客さまファースト」の精神
「遠いところまでよくおいでくださいました」
両手を合わせながら、笑顔で迎えてくれた箱石シツイさん。同居中の長男・英政さん(82才)が体調を崩したことで、現在は栃木県内の施設で暮らすが、シツイさん自身はいたって元気だ。半年前まで、現役理容師としてひとりで店を切り盛りしてきただけあって、滑舌もはっきりしている。

取材スタッフの服装を見て目を輝かせ、「素敵」「お似合いね」とほめたかと思うと、「何かおもてなしを…」と施設内を歩き、自ら茶菓子用の匙を借りてきてくれた。
「お客さまファースト」の精神は72年前に「理容 ハコイシ」を開業したときから掲げているという。シツイさんの気遣いに心を掴まれた。
女性でも手に職が必要と父のすすめで単身上京
理容師としての長い経験がギネス世界記録に認定されたが、もともと理容師希望ではなかった。
「私は大正5(1916)年、栃木県那須郡にある農家の三女(一男四女)に生まれました。両親はとても働き者でしたし、子供も手伝うのが当たり前。ですから、“人は働くもの”と思って自分も必死に誠実に働いてきました。気づけばこの年になり、世界一だなんて言っていただいて、ありがたいことです」(箱石シツイさん・以下同)
小学校卒業後、村長の家へ奉公に出され、そこで2年ほど働いた後、友人の母親から、親戚が経営している理容室で働かないかと誘われたのが、この道に入るきっかけになったという。
「父に相談しましたら、『これからは女も手に職をつけた方がいい』と言うので単身上京し、すすめられた『昭子理容院』で修業することにしました」
14才のときだった。
「店のある南葛飾郡吾嬬町(現・墨田区東部)はにぎやかなところで、夜には夜店が出ました。理容・美容の世界は女性が多いので、修業時代に先輩から嫌がらせを受けたという話を同業者から聞いたことがありますが、私が働いていた店にはそうしたことがなくて、むしろ仕事が終わると店主がよく遊びに誘ってくれました。でも早く一人前になりたくて、私は3度に1度は断って、こっそりひげそりの練習に励みました」
その甲斐あって、1年もするとシツイさんを指名する客が増えてきたという。
「母は私が幼い頃から『人を恨まず・人を妬まず・人と争わず』と言っていました。奉公先でも修業先でも、母の教えを守っていましたから、そのせいか何かあっても必ず誰かが助けてくれたように思います」

「昭子理容院」で4年ほど働いた後、亀戸の「理容 ライオン」へと移った。ここで理容師免許を取得すると、「オリオン理容所」、銀座の「ダンディ」、四谷見附の「ライト」と修業先を変えては技術を磨いた。
「働きたいと思う店を見つけると飛び込みで雇ってもらえないか直談判していました。若気の至りですね」
これは当時の女性にとって、なかなか挑戦的な“就活”だった。
そして22才のとき、「ライト」の常連客の紹介で2才年上の理容師・箱石二郎さんと結婚。新宿区下落合に理容店「ヒカリ」を開業した。ほどなく、長女の充子さん(現85才)、長男の英政さんにも恵まれ、順風満帆な人生のように見えた――。
店は焼失、夫は戦死。一家心中まで考えた
シツイさんの人生が大きく変わったのは昭和19(1944)年7月のこと。二郎さんに召集令状が届いたのだ。
「出征は令状が来てわずか3日後でした。その朝、近所の人が見送りに来ているのに夫が家から出てこないので様子を見に行くと、4才の充子と、10か月の英政を抱いて泣いていました。そのときの夫の『子供たちを頼む』という言葉は、いまでも忘れられません」

その後、店は空襲で全焼。幸い、シツイさん母子は実家の栃木へ疎開していたため、命は助かった。
「この頃は実家の片隅で、頼まれた人の散髪をしていたのですが、空襲で理容師の免許証まで燃えてしまったため、近所の同業者からは『もぐり床屋』なとど陰口を叩かれました」
それでもシツイさんは母の教え通り、人を恨まず・妬まず・争わず、ひっそりと夫の帰りを待ち続けた。
しかし終戦から8年後に届いたのは、夫の戦死を知らせる一通の手紙だった。
「戦後に両親が相次いで亡くなり、頼みの綱だった夫も帰ってこないとわかって絶望しました。子供たちと死ぬしかないと思い、一家心中を考えたほどです。でも当時10才だった英政の『死にたくない』という叫びでわれに返りました。『子供を頼む』といった夫との約束を危うく破るところでした」
3つの“ず”を家訓にして体現
「生きよう」と決めた後のシツイさんは強かった。
「不思議なもので、心機一転『やるぞ』と決めると、人生はそういう方向に進んでいくんですね。数か月後には自分の店『理容 ハコイシ』を実家の近くに開業しました」

子供たちを育てる上で大切にしたのが、母からの教えに加え、シツイさんが経験から培った「ひるまず、うらやましがらず、あらそわず」の3つの“ず”だったという。
「私は勇気を持つことで道を切り開いてきましたから、子供たちにも『ひるまず』、何事にも前向きに挑戦してほしかったんです。『うらやましがらず』は、人と比べて卑屈にならず、努力してできることを身につけてほしいという意味を込めて。そして『あらそわず』は、お客さまがあってのわが家ですから、わだかまりを残さないことがいちばん。私自身、子供に恥じないようこれらを体現してきました。だからこそ、平和に健やかに暮らしてこられたんだと思います」


何でも自分でやるのが元気の秘訣
開店するとその評判は口コミで広がり、瞬く間に人気店に。客の要望に柔軟に対応したのも店が繁盛した理由だ。
「農家のお客さまは、農繁期には忙しくて店に来られない人も多いんです。ですから、朝6時だろうが夜8時だろうが、お客さまが来られる時間に店を開けて待っていました」
子供のため、お客さまのためにと思うと、がんばれるというシツイさん。その精神で地域の婦人部長としても尽力し、令和3(2021)年の東京オリンピックでは、栃木県最高齢・104才の聖火ランナーにと請われ、期待に応えた。

「お客さまの顔にホットタオルを置いている間に食事を済ませるなど、長い間自分のことは後回しで生きてきたので、健康を意識し始めたのは70才を過ぎてから。はさみが握れなくなったら困るので、毎朝起きたら首、肩、手足などをストレッチし、毎日近所を散歩するようにしました。
お客さまが来ない時間を有効活用しようと畑仕事もしていたので、食事のメインは野菜。肉や魚はそれほど食べませんが、そのとき自分に必要と感じるものを食べています」

シツイさんのある日の食卓 ※息子の英政さんが開発し、特許を取得したお茶。アザミ・みょうが・ツユクサがブレンドされており、シツイさんも20年以上、毎日、朝昼晩の食後に愛飲(https://www.boxton.co.jp)。
102才までの55年間はひとり暮らしで、仕事も食事も畑仕事もすべてひとりでこなし、お客さまや近所の友達に自由に店の待合室に上がってもらってはおしゃべりに花を咲かせてきた。
人のために働き、粗食を好み、何でも自分でこなして運動やおしゃべりを楽しむ…こうした暮らしが元気の源なのだろう。
11月10日に109才となるシツイさん。「まだまだ人様のお役に立ちたいですね」と笑顔を見せてくれた。
箱石シツイさんの足跡
1916(大正5)年11月10日:栃木県那須郡の農家、斎藤家の4番目の子(三女)として誕生
1923(大正12)年:関東大震災。翌年尋常小学校入学
1929(昭和4)年:尋常小学校卒業。村長宅へ奉公に出される
1931(昭和6)年:理容師修業のため上京。「昭子理容院」(南葛飾郡吾嬬町)で働く
1936(昭和11)年:「理容 ライオン」(江東区亀戸)で修業中、理容術試験に合格
1939(昭和14)年:理容室「ライト」(新宿区四谷見附)の客の紹介で箱石二郎さんと結婚。理容店「ヒカリ」(新宿区下落合)を開業
1940(昭和15)年:長女・充子さん誕生。生後数か月して脳性まひに
1943(昭和18)年:長男・英政さん誕生
1944(昭和19)年:夫・二郎さんが軍隊に召集される。栃木県(実家)に疎開した直後、空襲で店が全焼
1945(昭和20)年:終戦。二郎さん戦死
1948(昭和23)年:理容師免許を取り直す
1953(昭和28)年:3月に二郎さんの戦死の知らせが届く。一家心中も考えたが、8月に「理容 ハコイシ」を開業
1960(昭和35)年:充子さんが施設に入所。英政さんと2人暮らしに
1964(昭和39)年:英政さんが大学進学で上京。ひとり暮らしに
2016(平成28)年:「百寿」を祝う
2019(令和元)年:骨折を機に英政さん夫婦と一緒に暮らし始める
2021(令和3)年:東京オリンピックに、栃木県最高齢の聖火ランナー(104才)として参加
2025(令和7)年:3月に「世界最高齢の女性現役理容師」(108才)としてギネス世界記録に認定。
参考文献/箱石シツイ著『108歳の現役理容師おばあちゃん ごきげん暮らしの知恵袋』(宝島社)
取材・文/上村久留美
※女性セブン2025年11月6日号