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《アンミカと対談》小田凱人が語るプロ車いすテニスへの情熱「いくつかの負けと悔しさが節目となって、いまの自分がある」

アンミカさんとプロ車いすテニスプレーヤーの小田凱人さん
アンミカさんとプロ車いすテニスプレーヤーの小田凱人さん(撮影/葛川栄蔵)
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モデル・俳優のアンミカさんが「ずっと会いたかった人」をゲストに招き、軽やかに奥深く人生を語らう注目連載「アンミカのカラフル幸福論」。第23回のゲストはプロ車いすテニスプレーヤーの小田凱人さん。

車いすテニス界で数々の史上最年少記録を打ち立て、世界の頂点に立った凱人さん。以前番組でご一緒したときは物静かで穏やかな印象でしたが、コートに立つと一変、果敢に攻め続ける姿からは強い情熱が伝わってきます。日本を飛び出して世界で活躍する20才の若者“リアルな言葉”を聞かせてください!

アンミカ:凱人さん、今日はよろしくお願いします。お名前、珍しいですよね。「凱」に「人」で「ときと」と読むかたに、初めてお目にかかりました。

小田:「ときと」の音を気に入った父が、漢字をあてたらしいです。“十回起きる人”で「十起人」とか、いくつかの候補から「凱人」を選んだと聞きました。

アンミカ:凱旋門があるフランス・パリで開かれた2024年のパラリンピックで、車いすテニスの金メダル(男子シングルス)を取った凱人さんにピッタリな漢字です。

小田:ちょっとできすぎですよね(笑い)。凱=戦いに勝って帰る、という意味があるので運命のようなものを感じます。

アンミカ:難しい漢字で小学生の頃は書くのが大変だったでしょう。

小田:小学5年生になっても書けなくて、「とき人」って書いてました(笑い)。

アンミカ:凱人さんは小さいとき、どんな性格でした?

小田:負けず嫌いでしたね。学校でぼくより足が速い人がいるのが許せなかったです。

アンミカ:勝ち気で頑固で、指導してくれるお父さまの言うことも聞かなかったとか(笑い)。

小田:そうですね(笑い)。でも、父はそれを受け入れて見守ってくれました。「やるなら1番を取ってこい」と言われて送り出されていましたし、1番を取れなかったときは、本当に怒られました。

アンミカ:厳しいけれど凱人さんを思っての言葉だと、幼いながらにちゃんとわかってたんですよね。

小田:はい。それにぼくらが小さい頃の両親は、厳しいというよりイケイケな感じで怖いと思ったことはなかったですね。

アンミカ:ぼくら、というと、ごきょうだいがいらっしゃって。

小田:2才上の姉と4つ下の弟がいます。

アンミカ:1番を取れと親から鼓舞される3人なら、きょうだいげんかが絶えなかったですか?

小田:小学2年生くらいまでは姉としょっちゅうしていました。弟が保育園に入るまでは、姉とは友達みたいに仲よかったんですけど、弟が保育園に行き始めると、急に“お姉ちゃん”をするようになって。ぼくはやきもちを焼いて、弟にちょっかいを出しては、姉を怒らせていました。

アンミカ:お母さんを取り合うのはよく聞くけれど、まさかお姉ちゃんを!

小田:結局姉にも、親にも怒られて(笑い)。いまは3人とも仲よくやってます。

アンミカ:それこそ、その頃はサッカーをやっていたそうですね。幼少期からテニスをしていたと思っていたから、サッカー選手を目指していたと知って、驚きました。

小田:2~3才くらいからボールを蹴り始めてましたね。サッカーだけじゃなくて、運動はなんでも好きでした。学校が終わるとランドセルを放り投げて公園へ飛んで行き、お腹がすいたら家へ帰る。そんな絵に描いたようなスポーツ少年でした。

アンミカ:家でゲームをする友達も周りにはいたと思うけど、そういうことはせずに?

小田:特別親から言われたわけじゃないけど、ぼく自身が外へ出たいタイプだったからゲームはしませんでしたね。ボールを蹴ったり、木登りをしたり、BMXやスケートボードなどに熱中していました。

アンミカ:当時からエネルギーに溢れていたんだ。その中でも夢中になったサッカーで、凱人さんのヒーローは誰でしたか。

小田:ブラジル代表のネイマール選手です! 彼に憧れて、本気でプロ選手を目指していました。

アンミカ:日本代表を輩出するような強豪クラブに通っていた9才のときに、病気を発症されたそうですね。

プロ車いすテニスプレーヤーの小田凱人さん
プロ車いすテニスプレーヤーの小田凱人さん(撮影/葛川栄蔵)
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明るく乗り越えた苦しい闘病生活

小田:小学2年生の終わり頃、なんとなく左脚に痛みを感じるようになったんです。練習中にひねっちゃったのかな、と最初は軽く考えていました。

アンミカ:私も中学と高校で陸上をやっていましたけど、スポーツに打ち込んでいるときの体の違和感は、どうせすぐ治ると思ってしまいがちですよね。

小田:でも、どんどん痛みが激しくなって、数か月後に「左股関節の骨肉腫」と診断され、即入院になりました。

アンミカ:骨にできるがんの一種ですね。原因もはっきりしていない希少がんにかかるなんて…。

小田:両親はショックを受けていましたが、ぼくはまだ幼かったこともあり、この病気がどれだけ大変なものかを理解できていなかったように思います。

アンミカ:大がかりな手術を受けられたと聞きました。

小田:まず抗がん剤で腫瘍をできるだけ小さくしてから、左脚の股関節と大腿骨の一部を切除して、人工骨頭を取り付ける手術を受けました。腫瘍が大きかった影響で周囲の筋肉も切除したので、代わりに腹筋を移植して補う手術もする必要があって、合計12時間の大手術。骨肉腫はひざにできることが多い病気なのですが、ぼくの腫瘍は股関節にできていて、難しい手術だったと聞いています。

アンミカ:小さい体でよく乗り越えられましたね。

小田:外で走り回っていたのがよかったのかもしれません(笑い)。

アンミカ:でも、術後だって大変だったでしょう。

小田:術後は、ほかの場所にがんが転移しないように抗がん剤治療から始まりました。9か月くらい入院をしたのですが、そこがいちばん苦しかった時期ですね。

アンミカ:体力も削がれるし、いままでできていたことができなくなると精神的にもきついし。

小田:抗がん剤治療ではわりとケロッとしていたんです。薬の量は体重に合わせて変わるので、9才のぼくはまだ体重も軽くて助かりました。高校生ぐらいで発症していたら、肉体的にも精神的にもきつかったと思います。ただおっしゃる通り、日常の動作ができなくなったことがきつくて。リハビリを始める前は、ベッドから床へ足をおろすのにも、すごく時間がかかっていましたが、一つひとつの動作をコツコツ練習しました。

アンミカ:9才の幼さで、よく前を向き続けられましたね。

小田:サッカーの仲間から病室へ応援メッセージの映像が届いたんです。いつもの公園で撮っていて「また皆でサッカーしようぜ!」って。退院してサッカーをすることを励みに踏ん張れました。それに、入院そのものを楽しむようにしたんです。4人部屋でほかの人は仕切りのカーテンを閉めていましたが、ぼくは寝るとき以外は全開で過ごしていました(笑い)。

アンミカ:「もう走れなくなる」と宣告されていながら、入院を楽しむという発想になれるなんて。

小田:閉じこもっていたら気分がアガらないじゃないですか。だから常にオープンにして、家からふざけた小物を持ってきてもらって、自分のベッドのまわりをお気に入りのグッズで飾りつけました。

アンミカ:目に入る景色をまずは明るく変えていったんですね。

小田:そのうち同部屋の子たちと話すようになって、皆でゲームをするようなったんです。気づいたときには、全員のカーテンが開いたままの病室になっていました。

アンミカ:大変なときに、自分だけじゃなく周りまで明るくできる人は、なかなかいません。

小田:そうしないと自分が耐えられなかっただけで、計算はしてないんですけどね。でも、そのリハビリ生活の中で悟ったんです。

アンミカ:何をですか?

小田:体の限界だったり、もうサッカーに戻れないことだったり。ぼくは覚えていないですが、病室でサッカーの試合の動画を母と見ながら、「サッカーはもう無理だろうな。手術をしてもらった大事な足が壊れる」と言ったそうです。

アンミカ:サッカーに熱中していた息子の言葉を聞いたお母さまの気持ちを思うと…。大事な足という言葉が健気で、お母さまはきっと一生忘れられないでしょうね。

アンミカさん
アンミカさん(撮影/葛川栄蔵)
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凱人がテニスなんて高貴なスポーツを!?

アンミカ:新たな希望となった車いすテニスにはどうやって出会ったんですか?

小田:主治医の先生が、パラスポーツの存在を教えてくれたんです。月に一度、小児科に入院している子供たちがいろいろな競技を体験できる日があって、「車いすでできるスポーツもあるからやってみない?」と声をかけてくれました。

アンミカ:テニスだけじゃなくて、いろいろなパラスポーツを体験されたんですね。

小田:そこで初めてスポーツ用の車いすに乗りました。一般的な車いすとは違って、少しこぐだけでスピードがぐんと出る。それだけで楽しくてたまらなかったんです。

アンミカ:スケボーやBMXにも親しんでいたから、スピード感や車輪を操る感覚が、すっと自分の中に入ってきたのかしら。

小田:もう心がうきうきして!病室でも毎日のようにパラスポーツの動画を見まくってたら、ロンドンパラリンピック(2012年)で金メダルを獲得した国枝慎吾さんの試合の映像に出会いました。それを見た瞬間、“カッコいい!”ってビビッときたんです。

アンミカ:国枝選手は世界ランキング1位の座を長年守り抜き、パラリンピックでも金メダルを4つ獲得した、まさに車いすテニス界のレジェンド。ネイマール選手に並ぶ新しいヒーローとの出会いですね。

小田:すぐにラケットを買ってもらって、車いすや病室のベッドの上で素振りをしたりと、サッカーを完全に忘れて、テニス中心の人生に切り替わりました。

アンミカ:なんて鮮やかなスイッチ(笑い)。凱人さんが一直線に新しい夢へと走りだして、親御さんもうれしかっただろうな。

小田:テニスに縁がない家族だったので、“テニスなんて高貴なスポーツやるの!?”と、あわてていたらしいです(笑い)。

アンミカ:退院後からもう車いすテニス一色の生活になったとか。

小田:はい。地元の愛知県のテニススクールを経て、10才で岐阜インターナショナルテニスクラブに入りました。自宅からは車で1時間以上の距離でしたが、父がいつも送り迎えをしてくれました。

アンミカ:コートでテニスをしたときはいかがでしたか。

小田:初めて行った日に「センスがあるね」と言われて、小さい子たちのクラスではなく選手が集まるレッスンへ呼んでもらったんです。そのときのうれしかった気持ちは、いまでも覚えています!

アンミカ:期待の新星、現る! 初めての試合から快進撃だったんですか?

小田:何もできずに初戦はストレートで負けました。忘れもしない10才の夏。悔しくて悔しくて、めっちゃ泣いてました。

アンミカ:史上最年少で世界を制した凱人さんも、始まりは苦い敗戦からだったんですね。勝ち負けを決めなくていいという最近の風潮があるけど、負けた悔しさは強い原動力になりますよね。

小田:ぼくにとっては不可欠な経験でした! これまでの競技人生を振り返ってもいくつかの負けと悔しさが節目となって、いまの自分があると考えています。

アンミカ:大人になると失敗して恥をかくのを恐れて、一歩が小さくなりがちなんです。だから悔しさをバネに全力で突き進む凱人さんがまぶしい。“私も昔はそうだったじゃない”と奮い立たせてもらえます!

(次号、後編へ続く)

小田凱人さんのHLLSPD

小田凱人さんに、Happy、Lucky、Love、Smile、Peace、Dreamについて答えてもらいました。今回はHappy、Lucky、Loveについて直撃!

Happy:何をしているときが幸せですか?

自分に会ったことで周りの人が喜んでくれるとき

Lucky:小さなことでも「ラッキー!」と思ったことは?

地元のコーヒーショップに飾ってあった古いウッドラケットを譲ってもらえたこと

Love:あなたが好きな言葉は?

傘を持つより晴れを信じろ

世界王者の素顔から、車いすテニスの未来を見据えた夢まで。後編も情熱たっぷりでお届けします!

◆モデル・俳優・アンミカ

アン ミカ/1972年生まれ。1993年パリコレ初参加。モデル業以外にもテレビ・ラジオMC、俳優、歌手、テレビCM出演と多彩に活躍。「日本化粧品検定1級」など20個以上の資格を生かし、化粧品、洋服、ジュエリーなどをプロデュース。

◆プロ車いすテニスプレーヤー・小田凱人

おだ ときと/2006年生まれ。9才で骨肉腫を患い股関節の手術を経験。国枝慎吾に憧れて車いすテニスを始め、10代でグランドスラム(四大大会)とパラリンピックを制し、史上最年少で生涯ゴールデンスラムを達成。現在、四大大会を6大会連続で制覇中。

撮影/葛川栄蔵 構成/渡部美也 衣装/ADORE(ネックレス、ピアス/ともにグロッセ)(アンミカさん)

※女性セブン2026年8月13日号

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