女優・大塚寧々さんのリクエストで実現した陶芸家・吉田次朗さんとの対談企画。女優と陶芸家というそれぞれの道に進んだきっかけや人生観などで、大いに盛り上がりました。「8760 by postseven」で始めた連載エッセイ「ネネノクラシ」が話題の大塚さんが、気鋭の人気陶芸家の魅力に迫ります。
人気作家になるまでの陶芸放浪生活
東京の下町出身で、現在は岐阜県に工房を持つ吉田さん。日々の暮らしの中で気持ちよく使える食器や花器、小さな女性像、オブジェなどを製作している。食や雑貨に携わる人ならその名前を知らない人はいない若手陶芸家だ。作品は繊細で力強く、他にはない自由な作風で、全国のギャラリーで不定期に開かれる展示会には予約が殺到、連日オープン前に行列ができるほどの人気ぶりだ。
一方、大塚さんは日大芸術学部で写真を学んだ後、役者としての道に進んだ。それからの活躍ぶりは改めてあげるまでもないだろう。2人にそれぞれの道を目指したきっかけを聞いてみると――。
大塚:成り行きなところもあります。今53歳だから思うのかもしれないのですが、先のことってあんまり決めつけすぎなくてもいいのかなって。
吉田:ぼくもまさにそうですね。実家が焼き物をやっていたというわけではなかったんです。すごい大家族できょうだいが7人いるんです。ぼくの名前は、九州にいた大工の祖父が「助次(すけじ)」という名前で、「次」の字をもらって「次朗」とつけられ、大工にでもなるだろうって言われてました。
実際、昔から何かを作ったりすることが好きっだったし、そういうことを仕事にできたらいいなっていうのは小さい頃からなんとなく思ってましたね。
都内のデザイン系の工業高校に行って、デザイン科で写真の現像をしたり映像を撮ったり、いろいろやってました。たまたまデザイン科のフロアに焼き物をやる部屋があって、ふらりとその部屋に入ったことがきっかけで焼き物をやり始めたんです。
卒業後はアルバイトをしてお金を貯めて古い焼き物の産地なんかを回って、19歳ぐらいのときに、岐阜県の多治見にある陶芸専門の学校に勉強しに行って、そこには7年ぐらいいました。その後、山口県の大津島という島に3年ぐらい住んで、その時は校庭つきの廃校みたいなところを使っていました。
それから宇部に4年ぐらい住んで、今は縁があってまた岐阜に住んでいます。その時その時で生きてます(笑い)。大塚さんも趣味で陶芸をされているんですよね?
大塚:最近はあまりやってないのですが、友人が陶芸学科出身で、彼女のところでよく作らせてもらって焼いていました。手びねりもやりますし、ろくろもやります。でも今はその友人が長野にいるのでなかなか行けなくて…。
子供が小さいときは、親子で作らせてもらっていました。やっぱり土って気持ちいいですよね。自然のものだからか、「無」になれるというか、触っていて心が落ち着きますよね。
吉田:余計なものを吸い取られる気がします。かわら投げや亡くなった人の茶碗を割ったりするのも、器には人間の思いが宿ると信じられていたからだと思うんです。それに陶芸は単純に土に触ることが楽しいんですよね。