
専業主婦から47歳にしてキャリアを再開し、電話番やレジ打ちを経て、いまや外資系ホテルの日本法人社長。激動の人生を歩んできた薄井シンシアさん(63歳)に、専業主婦時代から現在までの紆余曲折な人生を語ってもらう連載「もっと前向きに!シン生き方術」がスタート。仕事を持つ人も持たない人も、子供がいる人もいない人も、生き方のヒントが見つかるはず。連載初回は、復職して最初の仕事、タイの学校カフェテリアのマネージャー時代について。やんちゃな小学生たちに、わずか3か月で食事マナーを浸透させた方法とは――?
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17年ぶりの仕事は小学校の「食堂のおばさん」
30歳で出産して以来、子育てと家事に毎日全力をそそいで17年。私たち家族はタイ・バンコクにいて、娘は高校卒業間近、米国の大学に進むことが決まっていた頃でした。娘の学校からのおたよりに求人情報を見つけました。娘が通っていたのは小中高一貫の学校で、小学校のカフェテリアで子供たちの相手をする人を募集するということでした。小学生だけで700人ほど通っていたので、料理を提供するスタッフのほかに、子供たちが利用するテーブル側にいて目配りをするスタッフが必要だったんですね。

私は子育てが一段落して、これから寂しくなるなと思っていたところだったので、思い切って応募してみました。面接に行ったら「ぜひ、お願いします」と言ってもらえて、晴れて17年ぶりにキャリアを「食堂のおばさん」として再開することになったのです。結婚前は日本の貿易会社の社員でいわゆるバリキャリでしたから、なかなかのギャップですよね。
教えるときは“具体的に”“体験とセットで”
小学校は学年ごとに昼休みが始まる時間がずらしてあるのですが、それでも一度に100人前後が一斉にカフェテリアに押し寄せます。しかも、お腹がすいているので、ワーッと走ってくる。私は「走らない! 歩いて並ぼう!」と注意しますが、口でいくら言ってもそう簡単には改まりません。そこで、食堂に入って料理を取って席に着くまでの効率的な動線を考え、床にテープを貼って整列位置などを示しました。目で見て分かるようになっていると子供たちも従います。カオスだった食堂の風景が様変わりしました。
小学生ぐらいの子供たちには、口頭で伝えるだけではなかなか浸透しないものです。手洗いも「ちゃんと洗わないとダメよ」と注意しても、指先をちょっと濡らしたぐらいでおしまいという子がたくさんいます。だから私は石鹸を使って子供たちと一緒に手洗いの練習をしました。口で言われただけでは変わらない子も、一緒に練習すると次からは変わります。

子供たちが食べたあとの食器やイスを散らかしたまま遊びに行ってしまうので、先生方は「片付けてから!」と声をかけて回っていましたが、これも長らく状況が改善されない課題でした。この問題も、私は子供たちと一緒に練習することで解決しました。テーブルに置いたトレーに食器やコップを乗せ終わったら、立ち上がってイスをテーブルの下へ戻し、それからトレーを返却口へ持っていくという具体的な段取りを教え、お手本を見せたのです。
子供はコップをテーブルに置き忘れたり、イスを戻し忘れたりしますが、なにも言いつけに背いてやろうと思ってそうしているわけではありません。効率のいい手順を教えて習慣化すればちゃんと片付けます。
子供ってお父さんやお母さんのことが大好きで、褒めてもらいたいといつでも思っています。「うちの子は言うことをきかない!」とお困りの親御さんは、教え方を見直すのが解決への近道かもしれません。
分かりやすく覚えやすい言葉で浸透させる
私は言葉で伝える場合も、子供が理解しやすく覚えやすい言葉を選ぶようにしました。例えば、その食堂では先生方が「ヘルシーに食べよう」と口々に呼びかけていました。栄養バランスの取れた食事をしようという意味ですが、それを子供が理解して実践するのは難しいですよね。

私はこれを「毎日レインボー食べよう!」と言い換えました。「食べる物がカラフルであればあるほど、その食事は栄養バランスがよくなる」とものの本で読んだので、それをさらに分かりやすく、短い言葉にしてみたのです。自分が取ってきた料理の栄養バランスがいいかどうかは、子供には分からないかもしれませんが、自分のお皿の上が色とりどりかどうかは子供でも確認できます。
覚えやすいスローガンだったので、子供たちも口にするようになりました。自宅での夕食のときにも「今日もレインボー食べなくちゃ」などと言って意識する子も出てきて、わが子の変化に驚いた親御さんが私に会いに来てくれたこともあります。実はそうやって訪ねてくれたうちの一人が、のちに日本の大手ホテルで総支配人になり、私を起用したいと言ってくれました。意外なところで人の縁はつながりますね。
「あなた」「そこ」ではなく名前で呼ぶ効果
上に書いたようなことを全部やっても、やんちゃざかりの子供は人が食べているすぐ隣で飛び跳ねるとか、マナー違反をします。そういうとき、「そこ、暴れない!」と言っても効果はありません。でも「マイケル、やめなさい!」と名指しで言うと止まります。まず、来て日が浅い食堂のおばさんに名前を呼ばれてやんちゃ坊主もびっくりです。それに、名前を呼ばれると、自分が大人からちゃんと見てもらっているんだと思えて、自然に態度が改まる子供は多いんですよ。

私は子供のこの習性を知っていたので、カフェテリアに通ってくる700人の小学生の顔と名前を全員分、写真付きの書類を使って覚えました。当然、覚えるのに時間や労力はかかります。ですが、注意したときの響き方がまるで違うので、効率的な食堂運営につながったと思っています。
こんなふうに3か月、カフェテリアの現場に立って子供たちと触れ合う仕事をしていました。すると、学校側から今度は中学・高校のカフェテリアも任せたいとオファーが。業務範囲も子供たちとのコミュニケーションだけでなく、メニューの選定やスタッフの指導・監督なども含めたプロデュース、マネジメントに広げて依頼したいということでした。私が思ったより早く、本格的なキャリア再開のタイミングが訪れたのです。次回は、このプロデュース業に携わった頃のエピソードを紹介します。
◆LOF Hotel Management 日本法人社長・薄井シンシアさん

1959年、フィリピンの華僑の家に生まれる。結婚後、30歳で出産し、専業主婦に。47歳で再就職。娘が通う学校のカフェテリアで仕事を始め、日本に帰国後は、時給1300円の電話受付の仕事を経てANAインターコンチネンタルホテル東京に入社。3年で営業開発担当副支配人になり、シャングリ・ラ 東京に転職。2018年、日本コカ・コーラ社に入社し、オリンピックホスピタリティー担当就任するも五輪延期により失職。2021年5月から現職。近著に『人生は、もっと、自分で決めていい』(日経BP)。@UsuiCynthia
撮影/藤岡雅樹 構成/赤坂麻実、編集部