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薄井シンシアさんが語る「空の巣症候群」、娘がいなくなって「何もやることがない」そのときどうしたのか?

薄井シンシアさん
薄井シンシアさんが語る「空の巣症候群」
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17年間の専業主婦を経て、一人娘の大学進学を機に再就職。バンコクの食堂のパートから転職を繰り返し、外資系企業に転身した薄井シンシアさん(64歳)の給料は、10年間で時給1300円から年収1300万円にアップ。そんなシンシアさんが最も乗り越えるのが大変だったのは、子供が巣立った喪失感と向き合う「空の巣症候群」だったといいます。そこにはシンシアさんがキャリアアップをし続ける理由もひそんでいました。

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「ああ、やっぱり娘はいないんだね」

娘が巣立つことは、生まれたときから「大きくなるんだよね。成長したら、たぶんいなくなっちゃうんだよね」と覚悟していました。覚悟していたにもかかわらず、やっぱりダメージが大きかった。すごく大きかった。

今までの人生で「空の巣症候群」を乗り越えるのが一番大変でした。例えるなら、ずっと仕事に夢中だった人が、いきなり退職した感じ。娘が巣立った当時の私は「忙しければ、忙しい方がありがたい」という気持ちで、一生懸命に働きました。本当に仕事に救われたと思います。

「娘の教育」が私のすべてだった

それまで、私にとっては娘の教育がすべてでした。子育ては私のキャリア。だって毎日、娘のために起きてお弁当を作るでしょう? その娘がいなくなったら、何もやることがないじゃない。何をするの?

私には毎日、明確なルーティンがありました。だから、それが無くなり、代わりのルーティングが欲しくなったのです。

薄井シンシアさん
「娘の教育」が私のすべてだったというシンシアさん
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保護者向けの求人募集に応募

バンコクの学食のパートを選んだ理由は単純明快。5月に娘が卒業したあと、その高校から保護者宛のメールが来て、その中に「カフェテリアのパート募集」という求人広告があったのです。娘が進学したらやることが無いから応募しました。

子育てを理由に仕事を辞めたから、子育てが終わって仕事に戻る。それだけのことです。ただ、うつ状態になりたくないから仕事に応募した気持ちもありました。

仕事は8月開始で、私は8月に娘と米国・ボストンへ行くことが決まっていたので、いったんは辞退しました。でも学校から「絶対にシンシアさんがいい」と言われたので引き受けました。娘の学校で4年間のPTA活動をしていたので、私の人柄を知っていたのでしょうね。

お金や時間に価値基準を置けば諦められる

娘の独り立ちを一番感じたのは、仕事を始めてすぐに2週間の休暇をもらって娘をボストンの大学の寮へ送ったときです。生活の立ち上げを手伝って、ひとりでバンコクへ戻ったときに「ああ、やっぱり娘はいないんだね」と寂しさがこみ上げました。

ボストンの滞在期間を延ばす? そんな選択肢は初めからありません。滞在を延ばせば余分なお金がかかるのに、そんな想像をしてどうするの? 十分なお金があるんですか? ボストンは1泊300ドルもかかるのに、そんな生活を何日間続けられると思いますか?

薄井シンシアさん
すべてのことには限界がある
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すべてのことには限界がある。限界があることを考えても何の意味も無い。そう思わない? 私はお金の価値をよくわかっているから仕事も早いんです。

もちろん気持ちのコントロールは一気にできるものではなく、少しずつかもしれません。そんなとき、私は物事の基準をお金や時間など、限界のあるものに置きます。どうにもならないことには固執しない。あ、もちろん、気持ちの切り替えというのは、娘のためではなく、自分自身が前を向くためですよ。