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【骨になるまで・日本の火葬秘史】志村けんさんはひとり、コロナ禍の厳戒態勢の中で骨になった

火葬を一般化させたのはコレラの大流行だった

弔いの歴史を辿っていくと、コロナウイルスに限らず、感染症の流行が葬儀のスタイルを大きく変容させた事例は数多く存在する。その最たる例が江戸から明治時代にかけて何度も流行し、大量の命を奪ったコレラだ。日本で最初にコレラが大流行したのは1858(安政5)年。長崎に始まって大阪に飛び、江戸でも患者が急増し、死者数は20万人を超えた。流行のスピードは速く、1日に千里を走る虎の如きで、しかも発症すると“ころり”と死んでしまうことからコロリ(虎狼痢)と呼ばれた。

江戸時代に感染を防ぐ医薬品があるわけもなく、感染者は隔離され、死者は当時一般的だった土葬ではなく、感染対策として火葬で対処をするほかなかった。

江戸時代の火葬は、「火葬寺」と呼ばれる寺院で専門職の僧侶が運ばれてきた棺桶を荼毘に付した。安政の大流行ではその死者数があまりに多く、寺の前には棺桶が積み重なり、棺桶が足らずに酒樽で代用した。そうした教訓もあって明治になると火葬場が増えたが、まだまだ土葬が圧倒的で、火葬場建設が官民一体となって進められるのは、明治19年の1日に300人以上の死者を出したコレラの大流行の後のことである。

方形に石を置いて穴を掘り、その上に棺桶を置いて薪で焼く江戸時代から、赤煉瓦の火葬炉を高い煙突につなげた明治を経て、大正に入ると燃料は石炭、重油へと変わる。昭和に入ると火葬炉はさらに進歩し、戦後の火葬場は、煙突がなければ煙も見えない「火葬棟」として葬儀にも対応できる斎場となった。感染症対策に伴う火葬炉の進化・火葬技術の向上を推進する中で、火葬業者たちが念頭に置いたのは「お骨に対する遺族の思いを最大限尊重する」という“作法”だった。

志村家は250年続く農家で兄の知之氏が18代目。親族も多い
写真4枚

説明するのは葬祭ビジネス研究家の福田充だ。

「日本の火葬業は、頭蓋骨や喉仏をできるだけきれいな形で残したいというある種の“信仰”を、最大限尊重して火葬のプロセスを発展させてきました。もし多少、骨が崩れても灰が残ればいいという発想ならば、高密度かつ高温で焼却すればいい。単純に時間が短縮できますし、全自動操作も可能になります」

しかし拾骨が遺族にとって大切な時間である以上、あえてそうした技術を取り入れずに伝統を守っているのだ。また、火葬炉の技術と同じかそれ以上に、火葬場職員の力量が求められると福田は続ける。

「太ってる人、痩せてる人、男と女、お子さんだっています。事故の場合は燃やすのが難しい水死体なども考えられる。そうした遺体をきれいに骨が残る形で焼くには、やはり現場の人間の手で微妙な操作をする必要がある。

ご遺族が拾骨するとき、悲しい気持ちを抱かせてはならない。きれいに残った骨を拾うことがご遺族の癒しにもなるのです」

世界の火葬場の趨勢は、焼き切って灰にすることを目的とするもの。喉仏を探し骨の状況の説明を受け、みんなで箸渡しをして骨を拾い、頭蓋骨で仮蓋をして骨壺に納めるという習俗は日本独自だ。

しかし、守られ続けてきた伝統に、コロナ禍を経て変化が生じ始めている。葬祭業者が言う。

「コロナ罹患のご遺体は、拾骨時に遺族が立ち会わず、火葬場職員に一任していました。そうしたスタイルが一般化したわけではありませんが、罹患者でなくとも拾骨は職員に任せる形で構わないという人も出てきました」

コロナ禍が生んだ「お骨へのこだわりのなさ」は、炉前に集まりただ焼くだけという直葬の増加に連動するものだろう。宗教評論家の島田裕巳は、遺骨を引き取らず火葬場に処理を任せる「0葬」を推奨している。

《0葬に移行することで、私たちは墓の重荷から完全に解放される。墓を造る必要も墓を守っていく必要もなくなるからだ》(『0葬──あっさり死ぬ』集英社文庫より)

しかし前出の川田は「焼くだけ」の葬送が推奨されることに危機感を覚えていると話す。

「遺体をただ燃やせばいいというのであればゴミの焼却炉と一緒。火葬は“人の尊厳をどれだけ大切にするか”が重要です。その精神性を発揮しながら装置を開発したり、維持したり、運転をしたりする。その努力こそが人を弔うことだと思っています」

葬送は文化である──。

火葬場と50年以上向き合い、火葬場をテーマにした論文で日本建築学会賞を受賞したレジェンドの八木澤壯一・東京電機大学名誉教授は、こう提唱して40年前、日本葬送文化学会を立ち上げた。現会長の長江曜子・聖徳大学教授は、コロナ後の変化を見据えた上で、こう提言する。

「葬儀場もお墓も死者と生者が語り合う空間であり、大切な場所です。その場を失わせてはならない。メモリアリゼーション(追悼)は人間しか行わないのですから」

東村山市名誉市民となった志村けんは、いま、市内「梅岩寺」の「志村家の墓」に眠る。墓の前には花と志村が好きだった酒が絶えない。ファンは墓の前で手を合わせ、それぞれ志村への思いを墓石に向かって語りかけるのである。
(文中敬称略)

【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト。1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)、『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。

※女性セブン2024年7月4日号

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