【女性セブン連載『骨になるまで 日本火葬秘史』第3回】亡骸を見ながら遺族たちは生前の姿に思いを馳せ、最後の別れの言葉をかけた後、火葬して見送る。現代日本では当たり前のように行われてきた「弔い」の手順にどれほど「悼む気持ち」が込められてきたか──。それをあぶり出したのは未曽有の大震災だった。危機的な状況の中、犠牲者を見送るために奔走した人たちがいた。ジャーナリストの伊藤博敏氏がレポートする。
* * *
「いま、出してやっからな」
「土の中でかわいそうにな」
「ちゃんと火葬してやるからな」
男性は必死の形相で土を掻き出しながら、仮埋葬されていた、姪の亡骸の棺桶に向かって話しかける。やっとのことで引き上げられた棺は、土砂の重みを受けて潰れ、激しい損傷を受けていた──。
2011年3月11日、三陸沖で発生した東日本大震災。最大震度7、マグニチュード9.0の大地震は死者1万5900人、行方不明者2520人の犠牲を出した。交通網を含むあらゆる社会的インフラが壊滅的状況であり、遺体安置所に持ち込まれた死者は弔われることのないまま日を追うごとに増え続けた。時とともに遺体の損傷は激しくなっていく。
最大の死者を出した宮城県では県内27か所の火葬場のうち、7か所が損壊して稼働できず、被害を免れた火葬場も、燃料や人員、搬送車などが不足して稼働率は4分の1まで落ち込んだ。
あまりに多くの犠牲者に火葬が追いつかず、市や町は県に対して「土葬を考えなければいけないのではないか。方針を決めてほしい」と要請。それを受けた宮城県は厚生労働省の認可のもと、遺体を入れた棺を土の中に埋めて一時的に保管し、数年後に火葬する「仮埋葬」という形を決断した。2011年3月下旬から行われた仮埋葬によって、土の中に埋められた遺体の数は2108体に達した。
当初は「2年以内」とされた「仮」の埋葬期間だったが、「早く火葬してやりたい」と願う人が大半であり、仮埋葬が行われた数週間後には重機を持ち込んで、自力で棺を掘り起こし始める遺族の姿もあった。
土の中でかわいそうに。一刻も早く火葬して、きちんと送ってやるからな—そんな思いからは痛いほどに「悼む気持ち」が伝わってくる。
明治時代は「4人に3人」が土葬で弔われていた
東日本大震災は国内で起きた最大級の自然災害であり、至らなかった備えを含め、多くの教訓を残した。同時に、火葬が「弔い」の文化として完全に浸透したことも可視化した。
今日こそ、日本における「弔い」は99%以上が火葬だが、25%を超えたのは明治時代の中頃で、50%を上回ったのは1955(昭和30)年頃だ。現在60〜70代の人が生まれた当時は、まだ半数が土葬だったということだ。
いまの高齢者のなかには、葬列を組んで火葬場まで遺体を運ぶ「野辺送り」を経験した人もいる。当時、「死」はもっと身近なものであり、土葬と火葬が拮抗していた。
火葬の増加は経済成長と軌を一にする。バブル前夜の1985(昭和60)年頃には9割近くなり、2005年には99.8%と火葬が当たり前になった。そうした変化を肌で感じていたのは一般社団法人火葬研の武田至会長だ。1990年3月、東京電機大学大学院を修了して火葬炉メーカーに勤務。退社後、火葬場の近代化を推進するNPO団体「日本環境斎苑協会」を経て、1999年に火葬研の前身「火葬研究協会」を設立。40年近く火葬場や火葬炉に携わってきた。東日本大震災や新型コロナウイルスなど大きな社会事象が発生し、「火葬はどうあるべきか」が論議になると、必ず行政や業者に意見を求められる専門家だ。その武田をして、東日本大震災で多くの人が「火葬」に強い思い入れを持ったことは驚きだった。
「長らく、火葬にはどこか公言することがはばかられる雰囲気がつきまとい、火葬研をつくるとき、イメージが悪いという人もいて名称を決める際も火葬という文言を入れるかどうかで揉めたんです。しかし結局『火葬と堂々と言えるようにしたい』ということで、火葬研究協会としました。
そうしたやり取りがあったからこそ、震災時の仮埋葬をとりまく状況には驚かされました」(武田)
「死」を穢れとして嫌う神道の影響や、親の体を焼却することを「不孝」と見なす儒教の影響もあって、火葬の公言をはばかる風潮が四半世紀前まで存在したことは紛れもない事実なのだ。