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宮沢りえ、長い沈黙を破って“りえママ”について語った「本来の姿ではない母がSNSの中を重そうに泳いでいる」 毒母と叩かれていたのは“虚像の母”、41年目の叫び

母・光子さんについて語った女優の宮沢りえ
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仕事も恋も自分ひとりでは何も決められなかった少女・宮沢りえの陰には、いつも母・光子さんの存在があった。衝突を繰り返しながらも、「一卵性母子」とまでいわれた母娘の永遠のお別れから11年。りえの心の中には、いまだに母の強さと優しさが残っていて──。

《ずーっと心に閉まっている事がある。それは、母の事。随分、長いこと尾鰭背鰭がついた状態で本来の姿ではない母がSNSの中を重そうに泳いでいる。有る事無い事で塗り固められた母がSNSにこびり付くように存在している(中略)ある時期、毒母、魔女などと言われ叩かれていた時期があって、本当に存在する目の前の母とかけ離れ、様々な憶測で塗り固められたもう1人の虚像の母を否定したいと思った事があった》

4月10日、インスタグラムに母・光子さん(享年65)への思いを綴ったのは宮沢りえだ。52才の誕生日を迎えた4日後のことだった。

「ここ数日、11年前に亡くなった光子さんに言及するネットユーザーらのSNS投稿が、急増していたのです。りえさんは、それらを目にして、悔恨の思いが溢れ、いてもたってもいられなくなったのでしょう」(芸能関係者)

宮沢りえ(左)とりえママ(右)(1992年)
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きっかけは、広末涼子(44才)の事件だった。4月8日、静岡県内の新東名高速道路のトンネル内で交通事故を起こし、そのまま病院に搬送された広末は、病院内で看護師に暴行を加えて逮捕された。

「一連の広末さんの行動を考察する過程で、中学生でCMデビューし、16才で写真集を発売するなど、彼女が少女時代から芸能界という、一般社会とはかけ離れた世界で生活してきた影響を指摘する声が上がりました。その話が、同じく10代から芸能界で活躍したりえさんに“飛び火”したのです」(前出・芸能関係者)

光子さんがオランダ人男性と結婚し、りえを出産したのが1973年。しかし、その4か月後に離婚。以来、りえは父親と会っていないという。りえは小学5年生の11才からモデルを始め、14才のときに「三井のリハウス」のCMに出演して大ブレークした。

「その後、16才でふんどしルックのカレンダーを披露し、18才で突如ヘアヌード写真集を発表して世間を騒然とさせました。この写真集をプロデュースしたのが光子さんであることは有名です。広末さんの逮捕をきっかけに、このことも蒸し返され、SNS上では、『まだ10代の自分の娘を裸にしたなんてひどい』『芸能界に行かせた責任は母親にある』などと、当時の光子さんの功罪を問う声が『毒親』という単語とともにSNSに溢れました」(前出・芸能関係者)

仲よくベネチアに出発する宮沢りえ(左)とりえママ(右)(1994年)
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光子さんが肝腫瘍のため亡くなったのは、いまから11年前の2014年9月だった。

全盛期の「りえママ」は裏方ながら芸能界の中心にいるような人物だった。

「料理が得意だった光子さんを慕って、毎晩のように超有名人たちが20名ほど集まってパーティーをしていました。でも何といっても彼女が手腕を発揮したのは、娘であるりえさんのプロデュースでした」(前出・芸能関係者)

“最強のステージママ”といわれた光子さんが辣腕を振るったのが、篠山紀信さん(享年83)が撮影し、1991年に発売した前述のヘアヌード写真集『サンタフェ』だ。

「りえさんが18才になったとき、篠山さんがダメ元で『そろそろヌードでもどう』と持ちかけると、りえママは断るどころか、『きれいなお宝は若いうちに撮っておいた方がいいよね』という趣旨の返答をしてヌードを容認したそう。しかも、どうやらりえさんは撮影現場に行くまで裸になることを知らされておらず、りえママにその場で説得されて撮影に応じたと聞いています」(テレビ局関係者)

センセーショナルな写真集は155万部もの売り上げを記録し、社会現象となったが、18才の娘を“商品”にした光子さんには当時も厳しい声があった。

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