
死は誰にでも平等に訪れる。そしてそれがいつなのか選ぶことはできない。だが、最期の瞬間をどのように迎えるか望み、そのために準備することはできる。歌を通して若い頃から“人生の終わり”を考えてきた歌手・加藤登紀子(81才)が「理想とする死に方」について語った。
「もうどう終わってもいい」けど「死の瞬間」を経験したい
「若い頃、死ぬまで旅をすることに憧れました」
と語るのは歌手の加藤登紀子。自身の最期について考え始めたのは、ほかの人より早かったはずだと語る。
「20代のときに結婚してから作った『人はいつしか年老いて』という曲は、“人はいつしか年老いて、海の向こうにたどり着く。悲しみも全部超えて、すべてが愛おしい”みたいな歌詞でした。普通は、ある程度歳を取ってから死を考えるものなのでしょうが、私はわりと若い頃から“人生の終わり”を考えるのが好きだったんです」(加藤・以下同)
最期を迎える地として夢見たのが、生まれ故郷の旧満州・ハルビン(現在の中国東北部)だ。

「2才までしか住んでいなかったので郷愁にかられて、最後の旅をして、気がついたらハルビンにいるシチュエーションに憧れました。長い旅路の果てにたどり着くのが故郷であるべきというストーリーが自分のなかにあったんです」
1981年、歌手としてハルビンに招かれてコンサートをする機会に恵まれた。
「そのとき旅行会社の人が『最期をここで遂げたいという旅行者がよくいます』と言っていました。実際にハルビンは世界中から国を追われた亡命者が集まり、国境や言語、文化や宗教を超えた何かが生きている不思議な街。この文化が私を育ててくれた原点なんです」
旅を愛する加藤の理想はロシアの文豪・トルストイだという。
「彼は亡くなる前に、家出して鉄道に乗って、駅の宿舎で倒れるんです。彼がどこに行こうとしたのか興味があるわね。私も旅先で、空を見上げながら最期を迎えられたら最高だなと思います」
永眠の瞬間まで意識を保って生きたい、と望む彼女が思い浮かべるのは、夫・藤本敏夫氏の死に際だ。
「肝臓がんを患った夫は延命治療を拒否して、最後まで意識を保って亡くなりました。酸素マスクが外れたので直そうとしたら、彼は『もういいだろう』と言って、自分の意思で息をすることをやめてそのまま逝きました。死の瞬間を意識するのはつらいはずだという人もいますが、私はすごくあっぱれだったと思うし、最期の瞬間まで彼が彼であったことがすごく好き。
私は欲張りだから、意識を失ったまま亡くなるより、死の瞬間を経験してみたいです」
死の迎え方はひとつじゃない
一方で、旅は理想の死を迎えるための準備だとも。
「私は旅が大好きで、仕事でもいそいそと旅しています。いつも移動先のお天気がよく、元気になれるので、自分のことを『移動性高気圧』と呼んでいるほど。
旅先で心地よい瞬間をたくさん感じることがいちばんの元気のもとなので、年齢なんて考えずにずっと旅を続けてドキドキしていたい。8月にはまたハルビンでコンサートを行う予定で、ますます力がみなぎっています」
自分の死に方について考える時間が長かったからか、年齢を重ねるにつれて「もう、どう終わってもいい」と思うようにもなった。
「結局のところ人はどう死ぬかわからないのよ。その覚悟ができました。財産も残さない方がカッコいいと思って、5年ほど前から娘3人と年に一度、いま残っている財産をどう分けるかを話し合う“財産の見える化”を行っています。
死の迎え方はひとつじゃない。知人のテレビマンはホスピスに入る前に全財産をはたいてお世話になった人を招いて盛大なパーティーを開きました。その人は意識が薄れるなか、車いすで参加して3日後に亡くなった。旅先の空の下で死ぬのもいいけど、いまは彼のようなにぎやかな別れにも憧れます」
◆歌手・加藤登紀子
かとう・ときこ/1943年、ハルビン生まれ。1965年、デビュー。6月22日にNHKホールにて『加藤登紀子60th Anniversary Concert 2025 for peace 80億の祈り』を開催。
※女性セブン2025年5月8・15日号