
人生には3つの坂があるという。上り坂、下り坂、そして「まさか」。予期せぬ「まさか」が立ちはだかったとき、「まさか自分がこんな目に遭うなんて……」と多くの人が思う。そこで、その状況を悲観するか、楽しむかは自分次第。すい臓がん、そして余命1年半を宣告されたことを明かし話題となった、土屋アンナ(41才)の母である土屋眞弓さん(67才)。『人生、あれかこれか』を上梓した眞弓さんが「動じない生き方」の極意を語る。
人はいつか誰しも死んでいく──それは自然の摂理でありながら、慌ただしく目まぐるしい毎日の中で、人生の最後にある「死」に思いを至らせる人は少ない。
ファッションモデル、歌手、女優と3つの顔を持つ土屋アンナの母である土屋眞弓さんもそのひとりだった。眞弓さんにもまた、モデル事務所の社長、着付け師、書家と、3つの顔がある。2人の娘、8人の孫を育て“ゴッドマザー”とも呼ばれる眞弓さんが、「すい臓がんステージIV」を宣告されたのは昨年6月のことだ。
「自分は病気にならないと勝手に信じていたので青天の霹靂でした。余命はと聞くと1年か1年半だと言われて、『マジか……』と(苦笑い)。これまで使ったことのないワードが頭の中に浮かんだほどです」(眞弓さん・以下同)
衝撃を受けながらも眞弓さんは「了解です」と冷静で、「私、そんなので死なないから」と主治医にきっぱり語った。せっかちな性格を鑑みて、抗がん剤治療は“半年だけ”と自ら期限をきった。眞弓さんは「すみやかに決断をして、悩まない」「自分で決めて、やりたいように生きる」ことを信条としている。自分自身を信じて道を切り開く芯の強さは、持ち前の性格はもちろん、これまでの人生経験がもたらしていた。
がん治療は「韓国に行ってから」
大阪で生まれ、東京・渋谷で育った眞弓さんは22才のときにアメリカ人男性と結ばれ、23才で長女を出産。渡米し、慣れない環境で初めての育児に孤軍奮闘した後、アンナの出産を間近に控えたタイミングで日本へ帰国した。
だが東京での生活は順風満帆とは言い難く、夫の転職や単身赴任などで夫婦には距離が生じることに。34才で離婚に至った当時、長女は10才、アンナはまだ8才だった。女手ひとつで2人の娘を育てながらぶつかった苦悩はひとつやふたつではない。義理の息子との死別や、事務所スタッフによる横領など、思いも寄らない壁を乗り越え、66才で対峙したのがすい臓がんだ。
「以前から検診は受けていたけれど、昨年これまでにない不調を感じて受診しました。精密検査を受けることになり、発覚。すぐに治療を、と言われたけれどアンナと仕事で韓国に行かなければいけなかったので、『先生ごめんなさい、韓国の後からにしてください』ってお願いしたんです」
前述の通り、がんを突きつけられてもなお、眞弓さんの「落ち込むことがあっても、引きずらない」「いまある日々をおもしろがる」という信条は揺らがなかった。抗がん剤治療を前に入院して、体重は8㎏ほど減少したが、病棟の看護師から「こちらが元気をもらっています」と言われるほど陽気に過ごしたと振り返る。

「抗がん剤で髪が抜けると聞いたので、長かった黒髪をバッサリ切ってアッシュカラーに。66才まで地毛で通して、生まれてから染めたことがないのがちょっとした自慢でしたが、せっかくなので遊んでみました」
抗がん剤治療が始まると、髪が抜け始めた。
「今度は美容院で『剃ってください』って。自分で言うのもなんですが、これがなかなか似合っていたんですよ。娘が坊主になったら90代の母は泣いちゃうかしらと心配したけれど、『あらぁ~、似合うわね』と言ってくれました」
半年間の抗がん剤治療で5cm大の腫瘍は1.4cmまで小さくなった。しかし、治療方針に納得がいかず、継続を見送ることに。家族は腫瘍が再び大きくなることを懸念したが、眞弓さんは中断を決行。
「腫瘍は3cm大まで戻ってしまいました。でも、少しでも疑問を感じたら聞かずにはいられないし、その説明に納得がいかなかったら続けたくはない。自分の体のことは自分がいちばんよくわかっていますから」
今年3月にはすい臓病治療のスペシャリストと出会い、「ポート(血管の負担を軽減する皮下埋め込み型の医療器具)」に踏み切った。
「ポートは鎖骨下あたりに埋め込む医療器具で、そこから点滴も採血もできます。以前から勧められていましたが、体に傷をつけることに抵抗があって、拒絶していたんです。でも、やってみたら快適で正解でした」
がんになって母と娘の関係に変化
がんを告知されたことで、母と娘の関係に変化があったという。
「アンナも若い頃は親に対して変な反抗をしていましたが、がんになったことで、ものすごくケアをしてくれるようになった。もし私がいなくなったら、この子は生きていけないかもしれないと心配になってしまうくらい気にかけてくれています。やさしくて、繊細な子なんです」
互いに意識して一緒に過ごす時間も増えた。4月にはシンディ・ローパーとエリック・クラプトンの来日公演に、親子で参戦。先の予定があれば、万全とまではいかなくても楽しめるくらいの体力は保とうと励みになると続ける。
「母と娘で同じ時間を過ごして、思い出話などをするのも大事かなと。“あのときにママはこう言ってた”とあの子のメモリーに残ったらいいなと思うんです」
余命1年半の宣告に従えば、今年の12月に“そのとき”が訪れることになる。
「でもね、いまもやっぱりがんに負けて死ぬつもりはないし、見ての通り、あと半年では死ななそうでしょう?(笑い)生きる気力もあるんですよ」

眞弓さんの頭の中には、これからやってみたいことがあふれているという。
「まずは、もっと書道をしたい。コロナ禍の前から般若心経を写経し続けているんですよ。王義之の拓本をお手本に、半切に108枚書くつもりです。いまは70枚ちょっとなので、まだまだですね。着物を着て、歌舞伎へ出かけたりもしたい。孫とは、一緒に南の島へ旅行する約束をしています。8人いる孫のいちばん下がアンナのところの6才の女の子で、この間も泊まりにきて『ねぇ、飛行機に乗って海へ行こうよ』と誘うので『うん、いいよ』って」
激動の人生は考えてもみなかった展開の連続だったが、だからこそおもしろいと迷いはない。
「人生、何が起こるかわからない。だから生きるっておもしろいなと思います。がんになり、自分の人生が本になったこともびっくりです。こんな私の生き様をひとりでも笑ってくださるかたがいたら幸せです」
何が起ころうと、先へ進むしかない。だからこそ、どんなときも明るく、前しか向かない──明日が来るのを楽しみに、顔を上げて歩んでいく。それはいまもこの先もずっと変わらない。
※女性セブン2025年6月5・12日号


