
「親を看取る瞬間」が訪れると頭ではわかっていても、いざそのときが訪れると、あらゆる思いが胸にあふれるだろう。著名人たちが経験した「母の看取り」「父の看取り」では、最期の瞬間をどう迎え、どう受け止めたのだろうか。
「母が亡くなってから、頭の中も家の中も整理されないまま、10年が経とうとしています」
そう言葉を絞り出すのは俳優の藤真利子(70才)。2016年9月、92才だった藤の母・靜枝さんは入院先の病院を退院し、藤の待つ家に帰った。だがそれは決して看取りのためではなかったと、藤は振り返る。
「母は2005年に脳梗塞で倒れて右半身がまひしてしゃべれなくなり、翌年から在宅介護を始めていました。でも、介護をした11年間、母が亡くなるその日まで、看取りのことはまったく考えていません。2016年に病院から戻ってきたときも、母は亡くなる2日前まで普通にゼリーなどを食べていましたから」(藤・以下同)
だが退院から約2か月後、その日は突然訪れた。
「昼から撮影の仕事が入っていたので、午前中に来てくれていたヘルパーさんとキッチンで話し込んで、母のところに戻ったら、息を引き取っていました。泣けませんでした。突然すぎて驚いたのではなく、泣いたら目が腫れて、昼からの仕事に支障が出るからです。事前にケアマネジャーさんが準備したメモに従い大急ぎで葬儀社への連絡などの段取りをつけてから、撮影に向かいました」
仕事場ではプロとして、母が亡くなったことを誰にも悟らせなかった。家に戻ったのは午前4時だった。
「冷たく、硬くなった母の亡骸を見てやっと、思いっきり泣きました」

母の死後、自分ひとりで膨大な手続きをこなす中、大きな海にたったひとりで放り込まれたような孤独感に苛まれたという藤は、いまでも「あのとき、どうすればよかったのか」と自問する日々が続いている。
「晩年の母は尿も便も自力で出せず、医師の提案もあって少しでも楽になればとストーマ(人工肛門)の手術を決断したんです。でも、母は本当に嫌がっていた。手術室に入るときの顔は、いまも忘れられません。利尿剤のせいでむくみもひどくなって……私の勉強不足で、母を苦しめてしまった。介護も看取りも、悔いばかりです」
いまも母の部屋で眠り、母が愛用したコップが捨てられない。11年かけて介護し、母を看取ったが、それが本当に正しかったかどうか、答えはまだ出ていない。
「何をしても悔いは残り、私には“ママを殺した”という思いがあります。看取ることができてよかったのかどうか、いまも言葉が見つかりません。せめて最後に家に帰ることができてよかったと思いたいです」
【プロフィール】
藤真利子(俳優、歌手、作詞家、作曲家)/1978年にドラマ『飢餓海峡』(フジテレビ系)で注目される。仕事と両立しながら母・靜枝さんを11年間介護し、看取るまでを記録した著書『ママを殺した』がある。
※女性セブン2025年8月21・28日号