エンタメ

《死ぬまで出られなかった》杉良太郎ハンセン病療養所で知った「患者への差別」に絶句「国の犯した罪を理解してもらいたい」

慰問の旅を続ける杉
写真6枚

「今年中に、全国13か所にある国立ハンセン病療養所をすべて訪問する」──厚生労働省の特別健康対策監であり、社会福祉に人生を捧げてきた個人として、杉良太郎はそう誓い、命を燃やしている。

37年前にベトナムでハンセン病患者と出会ったことをきっかけに、患者へ向けられた差別と偏見を目の当たりにして憤り、深く心を痛めた。

帰国後、日本での状況が気になって、熊本県の「菊池恵楓園」を慰問した。“また来ます”と入所者と約束をして、5年後に再訪。その1996年、差別と偏見を助長する一端となった「らい予防法」が廃止された。

「患者の皆さんを苦しめてきた強制隔離政策が解除されたからといって、問題が解決したわけではない。病気を理由に穏やかな日常も家族との絆も人生の選択肢も奪われて、30年経とうが傷は癒えることがないんです。このような過ちを二度と、繰り返してはならない。そのために私は声を上げ続ける」(杉、以下同)

杉は鹿児島県を皮切りに5月に「奄美和光園」(奄美市)「星塚敬愛園」(鹿屋市)を慰問。6月15日は静岡県の「国立駿河療養所」(御殿場市)を訪れた。

束の間でも楽しい時間を過ごしてほしいと、伍代夏子、地元・富士宮市出身で吟詠家、尺八奏者の前田健志とコンサートを行った。前田は「お互いを思いやり、愛し合っていく世界が実現できればと想いを込めて」と、尺八で『縁』を演奏。

伍代の登場に場が華やぎ、杉の出番にはひときわ大きな拍手が沸いた。はつらつとした入所者の姿に「皆さんが全員揃ってこんなに笑顔になるなんて、普段はないんです」と職員たちも感激した面持ちに。

入所者全員に歩み寄って交流した後、杉らは納骨堂に献花した。駿河療養所ではハンセン病の歴史に触れる場として納骨堂を一般開放しており、お堂には胎児のお骨も安置されている。

隔離政策の下、療養所では結婚は許されたが、出産は禁じられていた。駿河療養所では1950年から1963年まで堕胎が強いられ、生まれてくることができなかった命のうち10体が胎児標本としてホルマリンに漬けられていた。2007年に慰霊祭が行われた折、カルテとの照合で全員の母親が判明したため、希望者は命名し、他界していた際は母親の名が骨壺に刻まれた。

箱根外輪山の中腹に佇む駿河療養所。富士山を望む自然豊かな環境だが、海抜約500mの傾斜地にあり、納骨堂へは上り坂となる。高齢化に伴って、先立った仲間たちを弔いたくとも自力では通えなくなった人がほとんどだという。

現在の納骨堂は1988年に移築されたもの。以前の場所を職員が示すと、はるか先の高台だった。かつて全国の療養所では大工や道路工事を含むすべての作業を患者に課した。

「長い、長い山道をどれだけの重労働だったろう。時代がそうさせたといえばそれまでだが、国は何を考えていたのか。信じられない……」と杉はしばし口をつぐみ、こぶしを握り締めた。

静岡県は日本で初めてハンセン病の療養施設がつくられた地。明治時代、パリ外国宣教会の神父が社会で放置された患者を保護したことに始まり、1989年に「復生病院」(現・神山復生病院、御殿場市)を開設。現在はホスピスが主体だが、90代の男性が2名暮らしている。杉らは慰問して交流した後、資料館「復生記念館」も見学した。

館内には、明治~昭和期の在院者の暮らしを物語る遺物も展示されていた。その中には“負の遺物”として消毒のための防湿容器があった。ハンセン病患者が書いた手紙は、消毒済みの判を押さないと院外へ配達されなかったのだという。

「患者の皆さんは生活の中でさまざまな差別を……」

杉は絶句した――。