
50歳で朝日新聞社を早期退職し、電気代が月200円になることもあるという超節電生活が話題を呼んだ元朝日新聞記者の稲垣えみ子さん(57歳)。今年1月、老後を朗らかに生きるためのエッセイ集『老後とピアノ』(ポプラ社)を出版しました。そんな稲垣さんに、53歳から始めたピアノのことを中心に、大人の趣味やセカンドライフについて聞きました。
ピアノを弾くことは世界旅行でもあり、時間旅行でもある
健康寿命を延伸させるためにも、余生を生き生きと過ごすためにも、シニアになる前から趣味を持とう、という論調を目にするようになった。しかし稲垣さんは当初、こうした考え方に否定的だった。
「標語のように使われる“老後は趣味を持ちましょう”について、ネガティブに思っていたんです。だってまるで、老後はやることがなくなるから、暇つぶしがあったほうがいいよね、と言わんばかりですよね。

でも、自分でピアノを始めて感じたのは、そういうことではありませんでした。現役のときに求めていた効率主義、成果主義ではないところに、自分の本当の喜びがあった。習うこと、練習すること、先生の言葉に悩んで自分なりの答えを出していくこと。結果ではなくて、どんなに小さくてもいいから、過程そのものに喜びを見出すことができたら素晴らしいと思うんです。私はピアノでしたが、盆栽でも詩吟でも何でもいい」(稲垣さん・以下同)
ピアノには独特の楽しみがあるという。
「元々はクラシックの世界に興味がなくて、むしろ堅苦しいとかなんだか偉そうとか、そういうイメージしかなかったんですけど(笑い)。クラシックピアノをするようになっていいなと思ったのは、歴史に触れられる素晴らしさです。たとえばバッハの曲を弾くということは、バッハの時代の人が弾いていたものを自分も弾き、その時代の人が聞いていたものを自分も聞くということですよね。
バッハという人物のこと、作曲した背景、その時代のことをリアルに考えずにいられません。ややもすれば目の前の心配事ばかりに振り回されてしまう自分に、もっとゆったりした大きな視点をあたえてくれる体験です。
それに、その作曲家の曲を自分の体を使って弾くというのは、何分の一かはその人になっていると思いませんか? バッハがしたはずの体の動きを自分もしているわけですから。それは歴史を体感していることだし、作曲家と対話する作業です。曲を弾くということは、その時代、その作曲家と出会うという、壮大な旅みたいなところがあるわけです。

私は旅行も好きで、そういう人はコロナで海外に行けないストレスがあると思うのですが、よく考えると今の私には案外それはないんですよね。ピアノを弾いていたら海外に行ける。歴史もさかのぼっているような。ピアノを弾いていることが最大の世界旅行、時間旅行のようなところがあるんです」
ピアノは壮大な無駄を面白がっているようなもの
稲垣さんは50歳で退社して以来、夫なし、子なし、冷蔵庫なし、ガス契約なしの「楽しく閉じて行く生活」を模索している。
「今は人生で一番小さな家に住んでいます。家電製品を手放しガス契約もやめたので、風呂は歩いて3分の銭湯ですし、近くのスーパーがわが家の冷蔵庫。街全体がわが家のようになりました。人に助けてもらわないと生きていけないので、コミュニケーション能力もアップしました。
結局、人を助けたり人に助けられたりして生きることが本当の幸せなんじゃないかと思うようになりました。お金をたくさん手に入れてなんでも好きな物を手に入れることが豊かさなのだと思っていたけれど、まったく逆だったのかもしれません。生まれて50年経って、初めて本当の自由とはなにかがわかった気がしています」

53歳からはピアノを始め1日2時間以上練習しているが、ピアノでこうなりたいという目標があるわけではない。
「ピアノが好きで楽しくやっているだけで、壮大な無駄をおもしろがっているようなものです。それって、生きていることをおもしろがっているんですよね」
セカンドライフは、自由や豊かさの価値観を見直すチャンス
稲垣さんは30代のころからヨガを続けている。当時できなかったポーズも、50代半ばのいまは楽々とできる。4年間、毎日のように続けたピアノも、憧れの曲に挑戦を続けている。
「ヨガもピアノも、すぐには上達できない。でも逆にいえば、時間さえかければちょっとずつできるようになります。続けていることで、歳をとるのが嫌だという気持ちが薄れてきました。自分になかった新しい価値観を教えてくれたので、出会ったことに感謝しています。でも、私がそうだからといって、無理に趣味を探さなくてもいいんですよ。

生活を充実させなきゃいけない、と焦燥感にかられるのは、ファーストライフの価値観をセカンドに持ち込んでしまっている気がします。子供を自立させたから今度は自分が輝かなきゃ、という人もいますが、もしその『輝く』ってことが、他人に評価されることを物差しにしてるんだとしたらすごくもったいない。
他人からどう見えようが、どんなくだらないことでも、うまくできてもできなくても、何かを全力でやっていることそのものが『輝いている』ってことなんじゃないでしょうか。そう思うだけで生きることはグッと楽しくなる。残り時間の限られた第2の人生こそ、そんなふうに思い切って価値観を変えるチャンスだと思うんです。

ファーストの価値観のままセカンドで闘おうと思ったら、絶対に負けます。若くもないし、衰えていくし。新たにやりたいことを見つけなきゃ!と気負うこと自体がファーストライフの呪縛ですよね。急がなくてもいいんです」
◆フリーランサー・稲垣えみ子さん

1965年生まれ。愛知県出身。朝日新聞社で論説委員、編集委員などを歴任。2016年に50歳で退社し、フリーランスに。著書に『魂の退社』『寂しい生活』『人生はどこでもドア』『一人飲みで生きていく』など。『もうレシピ本はいらない』で第5回料理レシピ本大賞エッセイ賞を受賞。今年1月、40年ぶりのピアノ体験を綴った『老後とピアノ』(ポプラ社)を出版。
撮影/浅野剛 取材・文/小山内麗香