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【全文公開】五月みどり、表舞台から遠ざかって6年…要介護3で施設に入所 認知症になっても変わらない美的センスと「いまでも口ずさむ歌」 

自宅を離れ、介護施設に入居している五月みどり
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1963年に放送された『第14回NHK紅白歌合戦』。五月みどりは『一週間に十日来い』を歌い、81.4%の瞬間最高視聴率を叩き出した。あれから約60年。歌手、女優、画家として走り続けた彼女はいまでもその歌を口ずさんでは、周囲に笑顔を届けている──。【全文公開】

「いまの母は自分の思いを言葉で表現するのが難しい状態ですが、自分の歌はしっかりと覚えているんです。特に『おひまなら来てね』と『一週間に十日来い』が大好きで、その曲の昔の映像を流すと、ノッてきちゃう。ものすごくうれしそうに手を叩いて涙ぐんで……。その姿を見ると、なんてかわいい人なんだろうと思います」

慎重に言葉を選びながら、五月みどり(85才)の現状を語るのは、ひとり娘の千恵さんだ。

2019年に放送されたドラマ『やすらぎの刻〜道』(テレビ朝日系)以降、五月は約6年もの間、表舞台から遠ざかっている。テレビだけでなく、雑誌やラジオの出演も一切なく、近況が明かされてこなかったため、一時は重病説まで囁かれた。

そんな五月が、今年に入ってから長年過ごした神奈川県・湯河原の地を離れ、家族に見守られながら、都内の介護施設で穏やかな日々を送っていることがわかった──。

波瀾万丈だったプライベート

五月は1958年、19才のときに『お座敷ロック』でレコードデビューした。1961年にリリースした『おひまなら来てね』が大ヒットし、翌年の『NHK紅白歌合戦』に初出場。その後も歌手として活動を続けていたが、1975年、36才のときに驚きの転身。東映ポルノ『かまきり夫人の告白』に出演して大反響を呼んだ。

「その後、40代までは妖艶な女優のイメージが強く、男性ファンが多かった五月さんですが、50代になると脱ぐ役は一切やめました。

そこからはタレントや女優業において天然ながら包容力があってかわいい印象が強くなり、女性ファンが急増。1997年に始まった人気バラエティー『伊東家の食卓』(日本テレビ系)ではおっとりとした母親役で人気を博しました。

『伊東家の食卓』などバラエティー番組でおなじみだった(2000年)
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また、40代で更年期障害に悩んだことや、健康のために50才でお酒をやめたことを赤裸々に明かすなど、等身大の姿も多くの女性から支持されました」(芸能関係者)

一方、プライベートは波瀾万丈だった。1965年に芸能プロダクション社長の西川幸男氏(故人)と結婚し、千恵さんと元プロゴルファーの哲さんをもうけるも、1971年に離婚。1976年に日本テレビのディレクターだった面高昌義氏(故人)と再婚するも、1984年に2度目の離婚となった。そして翌年、20才年下の歌手、立花淳一(66才)と3度目の結婚式を挙げたが、未入籍のまま1年4か月で破局を迎えた。

「3回目の破局後はマネジャーで所属事務所代表の逸見文泰さんと事実婚状態になりました。五月さんは逸見さんと湯河原にある自宅で暮らし、趣味だった花を使った手芸であるフローラルクラフトを教える教室を開いていました」(前出・芸能関係者)

2009年には、湯河原にギフトショップ「ヴィーナス」をオープン。「きれい」「かわいい」をモットーに衣服や自身のCDなどを販売したショップは“五月みどりの店”として大繁盛し、熱海駅前と熱海中央に店舗を拡大した。

施設ならではのメリットに気づく

芸能界での地位を確立し、温泉町で穏やかに暮らしていた五月に異変が訪れたのは、いまから6年ほど前のことだ。前述の『やすらぎの刻〜道』の撮影と重なる時期だった。

千恵さんが打ち明ける。

「タクシーに乗っている最中に行き先がわからなくなったり、人の名前が出てこなくなったのです。母も不安だったようで『頭がちょっと変なの』と私にSOSのサインを出したこともありました。その後、言葉がだんだん出てこなくなって……いまにして思えば、認知症の初期症状だったのでしょう」

病はゆっくりだが着実に五月を蝕んだ。もの忘れやできないことが増え、変わっていく母の姿を千恵さんは間近で見つめた。

2023年の大晦日、『伊東家の食卓』が8年ぶりに復活し、当時のキャストが再集結してテレビ放送されたが、出演者に五月の名はなかった。さらに2024年には、五月がこよなく愛したギフトショップ「ヴィーナス」が相次いで閉店し、五月の体調不安説がいっそう強まった。

2018年頃、千恵さん(左)の誕生日をともに祝った
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その時期と前後して、五月は認知症と診断されたという。

超高齢化で認知症患者が増えるなか、どうサポートするかは社会の大きな課題だ。多くの患者は自宅に住み続けることを願うが、近くに介護ができる人がいなければ、親族などが遠距離介護や介護離職を強いられたり、あるいは施設入所が選択肢となる。

決断を迫られた千恵さんたちも大いに悩んだという。

「母を介護していた叔母や住み込みのお手伝いさんも高齢となり、在宅介護を続けることが厳しくなりました。

東京に住む私が湯河原に移り住んで介護することも考えましたが、それもなかなか難しい。そこで、東京で施設を探すことにしました。入所のため要介護認定を調査してもらったところ、母は要介護3と認定されました」(千恵さん)

要介護3は7段階の要介護認定のうち3番目に重く、特別養護老人ホームの入居対象になる。

今年になって、五月は約30年間過ごした湯河原の家を出て東京の施設に入所した。五月の親族が明かす。

「本当に施設でいいのか、このまま家で過ごした方が本人にとっていいのかな、と葛藤がありました。また、大好きな家を出ることを嫌がらないか心配でしたが、思ったよりスムーズに進みました」

いざ入ってみると、施設ならではのメリットが多いことにも気づいたという。千恵さんが語る。

「施設では母が安心して生活できるようにスタッフのみなさんが優しく寄り添ってくれています。また、定期的に美容師さんが来て、髪をカラーリングしたりカットしてくれるので、自宅にいるときより若々しくなりました。私も毎日のように会いに行けますし、親族やお手伝いさんもよく来てくれて、みんなで母をサポートしています。

母は足腰が元気なのでベッドから起きてトイレまでひとりで歩いていけるし、ご飯も全部残さず食べる。30才若い私より食べますよ(笑い)」

着替えなどは時々介助が必要になるが、五月は何でも自分でやろうとして手助けに甘えを見せないという。

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