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【骨になるまで・日本の火葬秘史】上皇ご夫妻は400年ぶりでも「火葬」を望まれた 新時代の「送り方・送られ方」を考える

400年ぶりの「火葬」での弔いを表明された上皇後夫妻の陵は武蔵陵に確保されている
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エンディングノートに遺言書、墓じまい……「終活」はブームを超え、たしなみとなった。しかし、最後の最後「骨になる」瞬間を想像する人はほとんどいない。ジャーナリスト、伊藤博敏氏が、弔いの終着地である「火葬」を誰が担い、どう行われてきたかを明らかにし、新時代の「送り方・送られ方」を考えていく。【第1回】

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無縁社会の進行に合わせるように「孤独死」の件数は増加し、65才以上に限っても年間で6万8000人に上ると推計されている。

骨になるときはひとり──それを強く印象付けたのは、新型コロナウイルスが大流行の兆しを見せ始めていた2020年3月29日の喜劇タレント・志村けんのコロナ死だ。

志村の家族は病院で遺体に面会できないだけでなく、感染の危険性があるからと火葬場への同行も許されず、ようやく対面できたのは自宅近くでまだ生暖かい骨箱を受け取ったときだったという。

葬儀が行われたのは4月12日。親族と事務所関係者30人弱で執り行われた寂しき「家族葬」だった。大物タレントらしくない孤独な旅立ちは、ウイルスの危険性を世に伝えるだけでなく、変わりつつあった「葬儀の在り方」を“追認”したという意味で、葬儀史の転換点となったと思われた。

葬儀は、2日間にわたって通夜と告別式を行う「一般葬」から、告別式と火葬だけの「一日葬」や火葬場で焼くのみの「直葬」へ。墓も、家単位で継承されていく「一般墓」から、他者と共に葬られる「永代供養墓」や「樹木葬」、「散骨」へ──志村の葬儀は、無縁化が進む現代の「弔い事情」の反映とも取れるだろう。

しかし、どんなに弔いが簡素化されても、最後は誰もが「骨」になって旅立つ事実は変わらない。

火葬率が99.97%に上る日本では、「遺体を火葬する」ことと弔いはそのままイコールになるといっても過言ではない。

コロナ禍と同じかそれ以上の未曽有の事態だった東日本大震災では、葬儀関係者が遺族や地域社会の気持ちをすくい取り、迅速に動いた。

2011年3月11日、激しい地震と直後の津波が東北を襲ったその日から、浄土真宗本願寺派など仏教各宗派は災害救援本部などを設置して対策に当たった。創価学会などの新宗教団体も同様だった。

寺院や神社は一時避難所など救援の拠点となり、葬儀各社は宮城県葬祭業協同組合が中心となって災害対策本部を設置し水害に遭っていない葬祭会館を遺体安置所とした。なかでも急がれたのは遺体を納める棺で、最初の18日間で6450本を用意した。

火葬場も被害に遭ったのは同様で、数千の遺体が安置所に置かれたまま火葬できず、「仮埋葬」という形で土葬として処理された。だが、「焼いて骨にして送ってやりたい」という遺族の意向は強く、5月に入ると葬儀社が腐乱した遺体を掘り起こして再入棺し、各地の火葬場が引き受けて焼骨した。

火葬を望まれた上皇ご夫妻(時事通信フォト)
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火事と葬儀だけは地域で面倒を見る

そもそも「故人の骨を悼む」現代の葬儀の形が明確になり始めたのは江戸時代中期以降。平安時代までは葬送の地に運んで遺棄する「風葬」が一般的だった。京では鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)、化野(あだしの)などの郊外がそれに選ばれ、運ぶだけの人手がなければ、道端や河原に投げ捨てられた。

「弔い」は仏教の普及に連動してきた。鎌倉時代に浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、日蓮宗の日蓮など現代につながる仏教家が次々に輩出され、教えを広めていった結果、「葬儀」が行われるようになった。ただし、それでも火葬されるのは一部の「殿上人(でんじょうびと)」に限られていた。

江戸時代の火葬の一般化は、幕府が「寺請(てらうけ)制度」によって寺に庶民を管理させるようになったことに起因する。庶民は言わば自動的に檀家制度に組み込まれ、僧侶に葬儀と法事を依頼し、先祖供養の墓も建てるようになった。

それに伴い、村八分となった人でも火事と葬儀だけは地域社会が面倒を見るという不文律のもと、地方では葬列を組んで野辺送りをし、都会では町内会の隣組が喪家の面倒を見て、火葬場で荼毘に付すといういまの葬儀に通ずる形式が確立され、昭和の中頃まで続く。やがて葬儀社が地域社会に代わって取り仕切るようになり、病院から斎場に送られて通夜告別式、火葬場での拾骨、霊園への納骨という“流れ作業”のような形が一般化し今日に至るが、そのスタイルは現在ふたたび大きな変化を余儀なくされている。

国内では無縁社会の進行やインターネットの普及に伴う葬儀価格の「見える化」、少子高齢・核家族化による墓じまいの横行、「死は穢(けが)れ」という意識が希薄になったことによるビジネス化の進行などを背景に“流れ作業”の見直しが進む。その一方で世界を見渡すと、世界遺産の火葬場もあればレストラン併設の観光地化する斎場があり、火葬場と斎場をファッショナブルな施設として親しむ動きも広がりつつある。

誰もが「ひとりで骨になる」可能性のある現代、多様化する「最期の在り方」を前にいま必要なのは「私たちはどう弔いたいか、弔われたいか」という意思と構想力だろう。弔いの根幹であり、終着点でありながらも長らくベールに包まれてきた「火葬」を紐解くことで「今後の在り方」を考えていきたい。

まずは、日本国民の統合の象徴であり、弔いを「儀式」として確立した天皇家の葬送の歴史を辿ることから始めたい。

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