《周囲に刺激を与える“発光体ギャル”》97才の現役デザイナー・藤本ハルミさん、大阪・関西万博 で要人を迎えるアテンダントのドレスをデザイン「上方の伝統文化を世界の人に発信したい。愛郷心・愛国心です」
70才で訪れた第ニの転機
神戸は1973年の「ファッション都市宣言」以降、フランスとの交流がある。神戸ファッション界の第一人者となっていた藤本さんにも、その流れで新たな挑戦の機会が訪れた。
「1990年代初め、サンディカ・パリクチュール校校長のマダム・ソーラが私の店でドレスをご覧になり、『着物地や帯地は世界の文化遺産。あなたは日本の伝統の伝え手です。パリでショーをするなら全面的に応援したい』と言ってくれたんです。この言葉に感激した私は、『一発勝負してやろう』と、1997年のパリコレ(パリオートクチュールコレクション)への参加を決めました」
プレタポルテ(※フランス語で「高級既製服」という意味。ちなみに、オーダーを受けて作る「高級仕立服」をオートクチュールという)と違い、オートクチュールのコレクションは、オートクチュール組合に認められなければ、どんなに著名なデザイナーでも参加できない。当時、日本で唯一、ショーの開催が認められていたのは森英恵さんのみだったという。
「マダム・ソーラの尽力で私の参加が決まったとき、森さんにご挨拶に行きました。『どのくらいのスケールでやってらっしゃるの?』とおっしゃるので『10人ほどです』と答えると、森さんは『私もそんなときがあった。いちばん楽しかったわ』と、しみじみおっしゃったのが印象に残っています。
ショーの翌日、フランスの名門紙『フィガロ』に紹介されたときは、私より周りの人が驚いていたわね」
この成功を機に、モナコ、ニューヨーク、フィレンツェと海外でのショーの招聘が舞い込み、70代から「ハルミ・フジモト」の活躍が始まった。さらに2018年、91才で再びパリコレに参加。フランス旅での挫折から生まれた日本人のためのドレスが、欧米で称賛されたのだ。
流行は繰り返されるが、藤本さんの服作りはその対極にある。
「私はね、時代を超越した素材で自分がいいと思うものを作りたい。流行りものを作りたいと思ったことはないの。何より個性的であることが大事だから。
流行りものはおしゃれかもしれないけれど、個性的じゃないでしょう? 個性的である方が、ファッショナブルより上ですよね」
周囲に刺激を与える発光体ギャル
藤本さんのドレスをこよなく愛したひとりが、作家の田辺聖子さんだ。
「知人から『藤本さんと会わなかったら、おせい(田辺)さんはピンクと赤の服ばっかり着ていたよ』と言われました(笑い)。
田辺先生は、あるショーのプログラムに寄稿してくださった文章の中で、私を『周囲に刺激を与え続ける発光体ギャル』と形容してくださいました。とてもうれしかったわねえ」
撮影中、藤本さんに「にっこり笑ってください」と言うと、「しわができるから、いやや」と、おおらかに笑う。改めて元気の秘訣を伺うと、
「ストレスがないこと。それと、ちょっとしたことでも身を構う気力は大事。私、今日の取材のために、昨晩お風呂でパックしてきたのよ。でもそれは自分のため。自分が気持ちよくありたいでしょう。あとは姿勢。いつも肩を引くようにしています。どんないい服でも姿勢が悪かったら台無しよ」
生涯現役とまでは考えられないというが、日々勉強する姿勢には頭が下がる。
「もうこの年やし、いつ心臓が止まるかわからへん。でも、発想力は枯れていないね。なぜなら、毎日ファッションの勉強をするし、新聞やニュースも見ますよ。
私はね、いまの時代を生きていたいんです。今日どんなことが起こり、世界がどうなっているのか。いまを知らないと若い人とも会話ができないでしょう?」
いま、いちばんのモチベーションは大谷翔平選手。
「大谷さん、とっても尊敬しているのよ。あんなに賢い子いないでしょう? いつかお会いしたいわあ」
そう話す藤本さんはまるで少女のよう。
「私のまわりには、世代を超えた“藤本応援団”がたくさんいるの」とも。田辺さんが形容したように、“永遠の発光体ギャル”なのだ。
◆藤本ハルミ
ファッションデザイナー。1927年、神戸市生まれ。1954年、神戸に洋裁店「オートクチュール・マーガレット」を開店。1997年、70才でのパリオートクチュールコレクションへの参加を皮切りに、モナコ、ニューヨーク、フィレンツェでショーを行う。20年後となる2018年、再びパリオートクチュールコレクションに参加し、現在も現役で活躍中。
取材・文/佐藤有栄
※女性セブン2025年1月1日号