
人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、依存対象、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。ジャーナリスト・安藤優子(66才)の独占告白、前編。
健康のために始めたバレエに母娘で熱中に

報道番組に長く携わり、取材ともなれば戦地にまで赴くジャーナリストの安藤優子(66才)。タフなイメージがあるが、幼少期は虚弱体質だったという。
「私は未熟児として生まれました。幼い頃は偏食もひどくて、バターや肉の脂が食べられず、ハンバーグもだめでしたね。そのせいかガリガリに痩せていて、母は私に“食べさせること”で苦労していました」(安藤優子・以下同)
11年前、89才で亡くなった母・みどりさんのことを、安藤はこう振り返る。みどりさんは、3人きょうだいの中でも、ひときわ体の弱かった末娘をなんとか丈夫にしたいと、健康を考えた料理を毎日一生懸命作ってくれたという。
「母は大正時代の生まれで、女性は女性らしく、分をわきまえるようにと育てられた世代です。6人きょうだいの長女ということもあって面倒見がよく、私たちの成長を全力で後押ししてくれる情が深い人でした。とはいえ、決して地味で目立たないタイプではありません。明るくてアクティブで、新しいものや美しいものが大好き。明治時代生まれの両親(安藤にとっては祖父母)が西洋文化をいち早く生活に取り入れていたようで、母は幼い頃から洋館に暮らし、洋装で過ごしていたようです」
そんなみどりさんが、健康と情操教育のためにと幼い安藤さんに学ばせたのが、クラシックバレエだった。
「私は2才から母のすすめでクラシックバレエの教室に通わせてもらいました。美しく華やかなバレエに対する、母の憧憬もあったのではないかと思います」
安藤が生まれた昭和33(1958)年当時、バレエは女性たちの憧れだった。日本人で初めて国際的に活躍したプリマで「東洋の真珠」と謳われた森下洋子さんが活躍し、バレエを題材にした漫画やグッズが流行していた。
「母は私と一緒にどんどんバレエにのめり込んでいきました。発表会ともなると全力で応援してくれて‥‥。母は私に自分を投影していたのではないかと思います」
12年間、バレエに本気で打ち込んだものの、才能の限界を感じた安藤は、中学2年のときに、思い切って教室を辞めた。みどりさんはその決断も温かく見守ってくれた。
料理上手で美意識が高かった母
料理と美しいものが好きなみどりさんは、日頃から食卓でのマナーや盛り付けにもこだわっていたという。
「1回1回の食事に母の美意識が貫かれていました。たとえばスープには、世界的に有名な日本の陶磁器メーカー『ノリタケ』の皿を使い、銀製のスプーンを添える、漆塗りの器は洗って乾かしたら薄紙で包んで木箱に入れて保管するといった具合に、皿や器、カトラリーにこだわり、食卓を美しく仕立ててくれました。たとえ効率的でも、みそ汁の入った鍋にお玉を入れたまま食卓に運ぶ、ということはしませんでした。日々の生活の中で、当たり前のように食卓が整えられていたのは幸せなことでしたし、ありがたかったですね」
安藤が特に好きだった母の手料理は、茶わん蒸し。2段組みの大きな蒸し器で、家族と住み込みの家政婦の分とを合わせて10個ほど一気に蒸しあげた。やわらかな食感で出汁がきいており、見た目も美しかったという。
食を大切にし、手間暇かけて丁寧に、美しく供するみどりさんのおかげで、安藤の偏食は次第に改善されていった。
両親に内緒で”敵国”行きを決意

「母はよくおしゃべりをする人でもありました。“言葉できちんと伝える”ということにこだわっていて、特によく覚えているのが、『形のあるものは壊れるけれど、学んだことは決して奪われない』『教育だけは盗られない』というもの。口癖のように言っていました」
中学2年生のときにバレエの道を断念した安藤は、その後、母の言葉を胸に勉学に励む。高校に進学した頃には、ホテル業界で働きたいという夢を持つようになり、英語が話せた方がいいからと、留学を考えるようになった。ちょうどその頃、アメリカ合衆国への交換留学生を選抜するテストが高校で行われ、安藤は両親に内緒で試験を受けたという。
「父方の祖父をはじめ、戦争を経験した両親も皆、当時はアメリカを敵国と考えていましたから、私がひとりでアメリカに行くことなど、絶対に許してもらえないと思っていました。ところがテストに合格し、親子面接にまで進んだため、どうしても伝えなくてはならなくなって‥‥。案の定、猛烈に怒られましたね。『勝手にそんなことするなんて』と――。説得が大変でしたが、最終的には母が、『落ちるかもしれないし』と言って、一緒に面接に臨んでくれました」
その後、母の思惑とは裏腹に面接に合格。箱根のホテルで親子合同研修をすることになった。
「留学生活における規則について事細かに指導を受けるなかで、これなら娘をアメリカに行かせても大丈夫だと思ったのかもしれません。バレエのとき同様、母の情熱に火がついて、留学に向けて熱心に協力してくれるようになりました。母は一度覚悟を決めると、全力で応援してくれる人なんです」
留学先は、アメリカ合衆国ミシガン州ハートランド高校。みどりさんはホストファミリーへの土産を厳選し、安藤に持たせた。
「ホストファザーには西陣織のネクタイなど、ホストファミリーひとりひとりへのお土産を、考え抜いて選んでくれました。何より驚いたのが、ホストファミリーの家に着くと、すでに母からの手紙が送られてきていたことです。私の到着日時を考え、先回りして送ってくれたのでしょう。なめらかな筆記体で宛名が書かれており、それを見たとき、思わず号泣してしまいました。母は英語が書けないはずなのに、どれだけ練習をしたり調べたりしたのだろうと‥‥。ストレートに母の愛のパンチを食らいましたね」
(後編に続く)
◆ジャーナリスト・安藤優子
1958 年、千葉県生まれ。都立日比谷高校から、アメリカ・ミシガン州ハートランド高校に留学。上智大学在学中より報道番組のキャスターやリポーターとして活躍。1986年、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)のフィリピン報道でギャラクシー賞個人奨励賞を受賞。その後、『FNNスーパータイム』『ニュースJAPAN』『FNNスーパーニュース』『直撃LIVE グッディ!』(いずれもフジテレビ系列)などのメインキャスターを務める。女性の社会参画、政治・経済、国際情勢、介護・福祉などをテーマに講演活動も展開。著書は『ひるまない』(Grazia Books)、『自民党の女性認識―「イエ中心主義」の政治指向』(明石書店)、『アンドーの今もずっと好きなもの。』 (TJMOOK)など多数。
取材・文/上村久留美