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アイドルとして人気を博し、天然キャラとしても愛されるタレント・西村知美。「母は“理想の母”ではなかった」と語る――≪独占インタビュー『母を語る』前編≫

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人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。タレント・西村知美(54才)の独占告白、前編。

母に勝手な理想像を重ねて‥‥

「私が母に対して得も言われぬイライラした感情を持つようになったのは、反抗期が始まった中学生の頃。それからずいぶん長い間、私は母に辛い態度をとってきました。
母の嫌な部分が私の思い込みからくる誤解だとわかったのは、私自身が母となった32才のときでした」(西村知美・以下同)

照れたような微笑みをたたえて話す西村は、生まれ故郷の山口県に暮らす母・綾子さん(80才)に思いをはせる。

「私は末っ子でしたから、幼い頃は父にも母にもよく甘えていました。母とは一緒の布団で眠り、寒いときは母の足の間に手足を挟み、温めてもらっていたのをよく覚えています」

両親の愛情を受けて育った西村だが、成長と共に、母にだけ嫌悪感を抱くようになる。

「私には小さい頃から“理想の母親像”というものがあったのですが、それが母とはかなりかけ離れていたんです。理想と現実の母とのギャップを思い知らされるたび、母へのイライラが募っていきました」

西村にとっての理想の母とは、料理上手で、きれいでやさしく、頼りになる存在。たとえば、家族のために誰よりも早く起きて、いちばん最後に床につくような献身的な女性だ。

「ところが、私の母ときたら『料理は苦手』が口癖。私が試験勉強のため夜遅くまで起きていても、先に寝てしまう。手が空くとだらしなくリビングのソファでうたたするものだから、几帳面で厳格な父によく叱られていました。そのときは泣いて謝っても、すぐその後、テレビのバラエティー番組を見て笑っていて、反省の様子がない。反抗期のせいもあって、理想とかけ離れた母にうんざりしてしまったんです」

一方、地方公務員だった父親(享年82)は学生時代から成績優秀でスポーツ万能。おまけに知人から「お父さんは若いとき、モテたのよ」などと言われるほどのイケメン。父親はまさに“理想の父親像”を体現した人だったため、比較してしまったのだろう。成長と共に父にばかり頼るようになり、母とはあまり口をきかなくなっていったという。

「美容院から帰ってきて、母から『気に入った髪形にしてもらえた?』と声をかけられると、急にイライラしてくるんですよ。素敵に仕上げてもらえて、ちょっと前までウキウキしていたのに‥‥。母には見られるのもイヤで、『見ないでよ!』とタオルで頭を隠したり、食事のときは、母の咀嚼音が耳障りで『音を立てないで』とごねたりしたこともありました」

西村から理不尽な理由で怒鳴られても、綾子さんは怒ることもなく、
「その気持ちわかるわ。私もあなたくらいのとき、兄の食べ方がいやだったから」
などと穏やかに返してくれたという。

そんな中、“母との関係が完全に決裂した”と西村が思い込んだ事件が起こった。

自身も親となり、母・綾子さん(左)への誤解が解けたという西村。いまでは二人で旅行に行く仲に。
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初めての平手打ち! 反抗期をこじらせて

「いまとなってはきっかけがわからないのですが、ある日、私が母に激しく怒鳴ったことがありました。すると、温厚な母が1回、私に平手打ちをしたんです。母にぶたれたのは後にも先にもこのときだけ。私はあまりのショックについ、『私はお母さんみたいな母親には絶対ならない』と言ってしまいました。さすがに怒られるかと思ったら、母は『その言葉、よく覚えておきなさい。いつかあなたが親になったら、子供から同じことを言われるから』と冷静でした」

西村は「絶対にそうはならない」と心に誓ったものの、母のこの言葉が忘れられなかったという。

それから間もなく、西村の芸能界デビューが決まった。1984年、中学2年生のときにアイドル雑誌『Momoco』に応募した西村の写真が採用され、翌年には、「第1回ミスモモコクラブ・グランプリ」で優勝。すぐに映画出演とアイドル歌手デビューが決まった。

「デビューには父親をはじめ、親族全員から反対を受けました。芸能界は不安定な世界という印象があったものですから‥‥。でも、その反対が追いつかないほどのスピードで、次々とお仕事の話が決まったので、父も諦めたのでしょう。最後には『つらくなったら恥ずかしがることなくいつでも帰ってきなさい』と言って送り出してくれました」

中学卒業を待って上京。高校から東京の学校に入学し、1人暮らしが始まった。

「高校の同級生に酒井法子ちゃんや渡辺美奈代ちゃんがいて、仲よくしていたのですが、彼女たちはよくお料理を作ってくれたんです。同じ年の子が自炊していることに驚いて、自分もやらないと、と思ったものの、当時はおみそ汁にだしをいれることも、だしを取る方法も知らなくて‥‥。何せほうれん草を水に浸けたらお浸しになると思っていたくらいです(笑い)。料理だけでなく、洗濯機の使い方も知りませんでした。二層式の洗濯機だったのですが、どのタイミングで柔軟剤を入れるのかがわからず、脱水のときに入れたりしていました」

綾子さんに聞けばよかったのだが、反抗期を引きずったまま家を出てしまったため、意地になって聞けずにいた。電話は父としかせず、母が出た場合は父に代わってもらうほどたった。19才のとき、『きょうの料理』(NHK総合)に1年間レギュラー出演し、そこで初めて料理をきちんと習ったという。

「そのとき初めて、料理を毎日3食、家族の人数分作ることの大変さを実感し、母のありがたみを知りました。父は私にとっては素晴らしい人でしたが、母にはとても厳しく、料理をほめたり、家事をすることに感謝したりすることはありませんでした。そればかりか、母にだけ文句を言う(笑い)。両親から離れて仕事をし、自分のことを自分でするようになって、父と母を客観的にみられるようになっていきました」

1人暮らしを経験し、少しずつ母への思いが変わっていったが、関係性が変わったのは、西村が母になってからだった――。

後編に続く

◆タレント・西村知美
1970年、山口県宇部市生まれ。1984年、アイドル雑誌『Momoco』(学習研究社)内の企画「モモコクラブ」に姉が写真を応募し、桃組出席番号922番として掲載される。翌年、同誌主催の『第1回ミス・モモコクラブ』でグランプリを受賞。1986年3月に映画『ドン松五郎の生活』(東宝東和)に主演し、主題歌『夢色のメッセージ』でアイドル歌手デビュー。同年、『わたし・ドリーミング』では、日本レコード大賞・新人賞を受賞。テレビドラマや映画に出演するほか、『さんまのスーパーからくりTV』(TBS系)など、多くのバラエティー番組にも出演。1997年に元タレントの西尾拓美さんと結婚し、32才で一女の母に。手話技能検定や家事検定、オセロ検定、認知症介助士など、58種もの資格を取得していることでも知られる。

取材・文/上村久留美

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