
人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、依存対象、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。ジャーナリスト・安藤優子(66才)の独占告白、後編(前編はこちら)。
認知症を発症し、自分の”母”がどこかに行ってしまった

子供の成長を全力で後押ししてくれる、明るくてアクティブな母・みどりさんに、認知症の症状が現れ始めたのは、70代の頃だった。
「あるとき突然、マンションのベランダから飛び降りようとしたことがありました。実際にベランダの柵を乗り越えるようなことはなかったのですが‥‥。けんかをしたわけでもないし、きっかけがわからなかったので、その場にいた父をはじめ、皆で驚きました。ショックというより“困惑した”という感じでしょうか。何故そんなことをしたのか、結局わからずじまいでしたが、高齢になる自分を受け入れがたかったのかもしれません」
それまでのみどりさんは、買い物にヨガ、料理サロンと、毎日のように出かけていて家にいないことがほとんどだった。しかしこの一件以降、引きこもりがちになった。
「母が外出を億劫に感じるようになり、感情的にも不安定になったので、それまで一切家事をしてこなかった父が、買い物と食事の用意をし、なんとか夫婦2人で生活をしていました。
ところが、父にすい臓がんが見つかり、入院。2006年に他界すると、母は人生で初めてのひとり暮らしをすることになったんです」
寂しさや不安からか、一日に何度も電話をかけてくるなど、安藤たち子どもへの要求がエスカレート。安藤も仕事がどんなに忙しかろうと、母をひとりにしないよう、時間ギリギリまで付き添い、実家から直接海外取材に行くこともあったという。
「愛情深く育ててくれた母にはできる限りのことをしたいと思う反面、家族だからこそ『私だって疲れているのに』といった不満も出てきて、当時は感情が煮詰まってしまいました。ニュース番組に出演する緊張感と、母に対峙する緊張感で精神的にパンパンになりました」
ホームヘルパーや近所の人達にも協力してもらいつつ、3年ほど在宅介護を続けたが、家族皆が精神的に追い詰められ、仕方なく、高齢者施設に入居してもらった。しかしここで、安藤とみどりさんにとって光明となる、貴重な“出合い”が待っていた。
「臨床美術」に救われて

施設に入って最初の1年は大変だったと振り返る。
「母は『私をこんなところに押し込めて』と怒って暴力的になり、黙って施設を抜け出したこともありました。大好きな料理はできないし、旅行にも行けない。さらに発語、嚥下、運動など、日常生活に必要なさまざまな機能まで失われていく。『何故こんなこともできないのか』といった自己否定の嵐にもみくちゃにされ、それが母の怒りになったのかもしれません」
そうした母を目の前で見るのは、娘としても耐えがたかった。
「私の知っている愛情深くて明るい母はどこにいったのだろう――母は目の前にいるのに、喪失感を覚え、打ちのめされました」
そんななか、施設の介護スタッフがすすめてくれたのが、「臨床美術」だった。これは、アート作品を作ることで脳の活性と心の解放を促し、認知症予防などに役立てる療法だ。具体的には、みどりさんのこれまでの人生を聞き出し、思い出を掘り起こしてから、絵を描いてもらうというものだった。
「あるとき、臨床美術士のかたが母にアンスリウムの花を題材にしてくださいました。おそらく、母の部屋にあったハワイアンキルトのクッションや、海岸の砂、思い出の写真などから、母がハワイ好きだと察してくださったのでしょう。これをきっかけに、母はハワイの思い出話を始め、最後にアンスリウムの花の絵を描きました。明るい色彩、太くてのびやかな線‥‥とてもよい出来栄えで、本人もそう感じたんでしょう。絞り出すように『よ・く・で・き・た』と語ったと、介護士さんが涙ながらに教えてくれました。母は満足のいく作品を描けたことで、自己否定の嵐からようやく抜け出せたようでした」
その後も、みどりさんは次々と作品を生み出していく。
「私はそうした作品を見て、なくなったと思っていた母の本質は、変わらずここにあったのだと気づかされ、母への思いも変わりました。同時に母の施設での暮らしも穏やかになっていきました」
みどりさんにとって創作は励みになったようで、89才で亡くなる直前まで描いていたという。
「晩年の母は、本当に幸せそうでした。施設の職員の皆さんは、“何もできない認知症の安藤みどり”ではなく、“人間・安藤みどり”を知ろうとしてくれた。母はそれに救われ、最期は安らかに逝きました。施設で『臨床美術』や職員の皆さんに出会っていなければ、私は母の本当の気持ちを知らないままでしたから、本当に感謝しています」
自分の一部に母がいる
みどりさんを見送ってから10年以上経ったが、日常の1コマ1コマにみどりさんの生き様が刷り込まれているという。
「たとえば、茶碗蒸しを作れば自然と母のことが思い出されるし、もやしの下処理をするときは、『母はひげ根を取り除いていたけれど、私は取らないの』なんて比較をしてまた思い出す。母は料理も細かく丁寧に教えてくれましたね。しつけが行き届いていたのだと実感します」
さらにみどりさんは、安藤にさまざまな“言葉”も残してくれた。
「言葉できちんと伝えよう、という考えの人だったので、『世の中に寝るより楽はなかりけり 浮世の馬鹿が起きて働く』(※)といったこともよく言っていましたね。折に触れて思い出しては、母と同じせりふを口にしていることがあります」
自分の一部に母がいる――みどりさんの愛と生き様が、いまも安藤の人生の礎になっている。
(※)江戸時代の狂歌の一節。自分の時間や主体性を犠牲にしてまで、必要以上の収入を得る必要はないといった意味。
◆ジャーナリスト・安藤優子
1958 年、千葉県生まれ。都立日比谷高校から、アメリカ・ミシガン州ハートランド高校に留学。上智大学在学中より報道番組のキャスターやリポーターとして活躍。1986年、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)のフィリピン報道でギャラクシー賞個人奨励賞を受賞。その後、『FNNスーパータイム』『ニュースJAPAN』『FNNスーパーニュース』『直撃LIVE グッディ!』(いずれもフジテレビ系列)などのメインキャスターを務める。女性の社会参画、政治・経済、国際情勢、介護・福祉などをテーマに講演活動も展開。著書は『ひるまない』(Grazia Books)、『自民党の女性認識―「イエ中心主義」の政治指向』(明石書店)、『アンドーの今もずっと好きなもの。』 (TJMOOK)など多数。
取材・文/上村久留美