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人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、依存対象、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。歌手・小林幸子(71才)の独占告白、後編。
歌手になることを母に大反対され‥‥

小林は1964年、10才のときに『ウソツキ鴎』で歌手デビューする。そのきっかけは音楽好きだった父・喜代照(きよてる)さん(当時43才)が出した一枚の応募はがきだった。
「『歌まね読本』(TBS系)という当時人気の視聴者参加型ものまね歌謡番組に、父が私に内緒で応募したんです。当時9才でした。そこで思いがけずグランドチャンピオンになり、審査委員長だった作曲家の故・古賀政男さんにスカウトしていただきました」
歌手になるのは、もともと喜代照さんの夢だった。歌手の故・東海林太郎さんに憧れていた喜代照さんは、お風呂で浪花節などをよく歌っていたという。
「入浴中、父が私に『幸子も歌ってみるかい?』というと、私は見よう見まねで、こぶしをまわして歌ったそうなんです。それで父はびっくり仰天。湯船で私を抱きかかえていた手を、思わず離しそうになったと言っていました。同時に、もしかしたら私には歌手の素質があるかもしれないと思ったようです」
スカウト後、ほどなく歌手デビューが決まり、大いに喜んだ喜代照さんに対し、母・イツさん(当時40才)は大反対したという。親族会議を開いて話し合ったが結論は出ず、最終判断は小林自身にゆだねられた。
「こんなにも真剣な両親の顔を見るのは初めてだなぁと思いましたが、9才の私には何が何だかわからない。ただ、『幸子はどうしたい? 歌手になりたいの?』と聞かれて、もしかしたら大変なことを聞かれているのかな?とは思いましたが、9才の私は、バナナが食べたい!と同じような感じで『なりたい』と答えたことはしっかり覚えています」
その直後、イツさんがとった行動は――
「タンスの前に連れていかれて、着物のたたみ方を覚えるように言われました。当時から演歌歌手の衣装は着物というイメージがあったからかもしれません。母が伝えたかったのは、『これからは男も女も大人も子供も関係ない世界に行く、だから何でもひとりでやらなくてはだめなのよ』ということだったと思います。絣の着物を自分で着て、簡単な文庫結びもできるように教えられました。そして、母は私を東京へと送り出してくれました」
小林は小学4年生にして、東京・四谷三丁目のアパートでひとり暮らしを始めた。
寂しさから繰り返した母への無言電話

デビュー曲の『ウソツキ鴎』は、レコード売り上げ約20万枚のヒットを記録した。その卓抜した歌唱力から「天才少女歌手誕生」などと評され、東京での暮らしは多忙を極めた。マネジャーをはじめ、多くの大人たちに囲まれた生活は刺激的だったという。両親もどちらかが1~2か月に1度は上京し、3日間ほど滞在してくれたが、夜、アパートにひとりきりになると、やはり寂しさが募った。
「私が借りていたアパートの部屋には電話が設置されていました。新潟の実家も商売用に早くから電話を引いていたので、夜、寂しくなると新潟の実家へ電話をかけたものです。実家の電話は必ず母が出ると知っていたので、ダイヤルを回して、『はい、小林精肉店です』という母の元気な声を聞いたらすぐに電話を切っていました。しゃべったら泣いてしまいそうだったからです」
数年後、小林はイツさんに、
「無言電話が何度かかかってきたでしょ、あれ、私なの」
と告白すると、イツさんは、
「そんなことわかっていたよ」
とにっこり。
「母はすべてお見通し。やっぱり叶わないなぁと痛感しましたね」
帰郷し、東京に帰る際もイツさんは必ず見送りしてくれた。
「列車のホームまで見送りに来てくれた母は、『早く乗りなさい』なんて促すんですよ。そんなことを言われたら寂しいじゃないですか。それで、『そんな冷たいいい方しなくてもいいじゃない』なんて、思っていたのですが、後日、母と一緒に見送ってくれた人から、『さっちゃんは知らないだろうけど、イツさんはいつも、列車が出発すると、それを追ってホームの端まで走っていって、最後はうずくまって泣いているんだよ』と聞いて――」
当時は新幹線がまだ開通しておらず、東京‐新潟間を夜行列車で7時間かかった。あまりに遠い場所にひとり暮らす娘を思い、寂しさを募らせたのは小林だけではなかったのだろう。
最期まで許してくれず、突然逝った母

『ウソツキ鴎』で華々しいデビューを飾った小林だったが、その後はヒットに恵まれなかった。デビュー5年後の15才のときには、デビュー時の新潟地震の影響やスーパーマーケットの台頭などもあって、実家の精肉店が閉店。そこで小林は2DKのマンションに引っ越すと、両親と姉たちを東京へ呼び寄せた。家族と一緒に暮らすため、一層仕事に力を入れたが、鳴かず飛ばずの日々‥‥。それが10年も続いた。
「姉たちはまだ学生でしたから、両親もなんとか東京で再起を図ろうとしたのですが、父親は当時50才。なかなか仕事が見つかりませんでした」
キャバレーやナイトクラブのステージで歌う小林を助けたいと、イツさんも近所のビジネスホテルにパートタイマーとして勤務し、ベッドメイキングの仕事に汗を流したこともあった。だが、持病のリウマチが悪化すると、それを続けるのも難しくなった。
「歌手を辞めたいと思ったこともありましたが、だからといって歌う以外にできることはありません。何より、自分からなりたいといって選んだ道ですから、そう簡単には辞められない。いろいろな葛藤はありましたが、そばに家族がいてくれたからがんばって続けられたのだと思います」
そしてデビューから15年、25才のときに『おもいで酒』がレコード売り上げ200万枚を超える大ヒットを記録。この頃には姉たちも独立して経済的に余裕が出るようになり、両親に旅行をプレゼントできるようにもなった。
晩年はぜんそくを患い、「死ぬときは空気のいいところで」というイツさんの願いに応えて、静岡に家を購入した。
「『おもいで酒』でいろいろな賞をいただき、その後、歌手としてある程度認められるようになりました。そんなとき母に、『まだ私が歌手になったことに反対してる?』と聞いたんです。すると母はこう即答しました。『うん、いまだって反対だよ』って――。母は、結婚して子供に恵まれ、家族で穏やかに暮らすことこそ、女の幸せだと信じて疑わない人でしたから、そういう意味で、私は母の意に反した娘なんです」
一度言ったことは絶対曲げない、雪国に育った女性らしい芯の強さは、こうしたところでも発揮され、その後何度同じ質問をしても、イツさんの答えは変わらなかったという。
「2000年、母が78才のときに温泉旅行に行ったのですが、そのときも同じ質問をしました。ところが、このときの返事はいつもと少し違いました。『反対』と笑顔で答えつつ、こう付け加えたんです。『これまでたくさん親孝行をしてくれてありがとう。私はもう充分だから、幸子、これからは自分の幸せだけ考えて』と――本当はいちばんの応援者だったんです」
小林にこの言葉を残した数か月後、イツさんは心筋梗塞で急逝した。
「じゃ、さよなら」と手を振って去るような、あまりにもあっけない最期だった。
「いろいろなことがありましたが、思い出すのは笑顔の母。私たち姉妹に、『いつも微笑んでいなさい。そうすればあなたを嫌う人はいないから』と言っていたのですが、母自身、その言葉通りに生きた人だったと思います。ホームで泣きくずれた母の反対を押し切ってまで進んだこの道だから、どんなつらいことがあっても乗り越えてみせます。これからも、母の言葉をかみしめて、笑顔を大切に生きていきたいと思っています」
◆歌手・小林幸子
1953年、新潟県生まれ。1964年、10才のときに『ウソツキ鴎』で歌手デビュー。1979年『おもいで酒』が大ヒットを記録し、日本レコード大賞「最優秀歌唱賞」をはじめとする数々の歌唱賞を受賞。同年「第30回NHK紅白歌合戦」にて紅白初出場を果たし、以降34回出場する。『とまり木』『もしかして』『ふたたびの』『雪椿』など数多くの代表曲を誇る。2006年「紺綬褒章」受章し、2013年には、「新潟県民栄誉賞」を受賞。舞台、テレビドラマ、バラエティーなど多方面で活躍し、2024年には芸能生活60周年を迎えた。著書に『ラスボスの伝言 小林幸子の「幸」を招く20のルール』(小学館)など。
取材・文/上村久留美