ライフ

「あんたは私の最後の幸せを壊した」とののしられ――俳優・秋川リサが明かす母との確執≪独占インタビュー『母を語る』前編≫

母の若い恋人を追い出すと「絶対許さない」と激怒

「私が7才のときに一緒に暮らした“新しいパピー”はやさしくて、いろいろな所に連れて行ってくれたし、剣道や詩吟を教えてくれるなど、とてもかわいがってくれました。でもある日突然、来なくなりました。マミーに理由を聞くと、『会社がつぶれそうなんだって。お金がないんじゃ、つきあう意味がないもの』と‥…。子供ながらに、それはないだろうと思いましたね」

秋川が13才のときには、千代子さんより7~8才若い恋人が一緒に暮らすようになったが、この男性はあまり働かずに、唯一テレビのある母の部屋をひとりで占領していたという。そこである日、秋川が啖呵を切って追い出した。
「彼がいると好きなテレビ番組が見られないし、うるさいと言われるからお友達と電話もできない。食事を用意しても礼のひとつも言えない‥‥理由はいろいろありましたが何より、中学生になり、体が大人びてきた私を“女性”として意識してくるので、危機感を感じたんです」

勝子さんも「私もあの人、虫が好かなかったわ」と言ってくれたので、家族のためによいことをしたと思った秋川だったが、千代子さんは、「あんたは私の最後の幸せを壊したのよ。絶対に許さない」と激怒し、秋川が生活費を稼ぐようになるまで、口をきかなくなったという。

秋川が15才で大黒柱になると母は仕事を辞めた

仕事を始めたばかり、10代の頃の秋川。
写真3枚

秋川が千代子さんの恋人を追い出してから、2人は言葉を交わさなくなったが、それでも学費を払わない、ということはなかった。

ところが、秋川が高校に入学した直後、千代子さんのスナックが倒産する。おまけに勝子さんは転倒して大腿骨を骨折。長期入院を余儀なくされた。

「入院中の祖母から、『働かざる者食うべからず。もって生まれた容姿を生かして仕事をしなさい』といわれ、知り合いのモデル事務所を紹介してもらいました」

モデルに興味のない秋川だったが、面接は合格。すぐに仕事が入ってきた。それまで通っていた学校はアルバイトが禁止だったため、別の高校に転入した。

デビュー後、仕事は順調だった。ファッションショーやテレビCMなどの仕事が次々に決まり、あっという間にスターダムにのし上がった秋川は、デビューから3年経った18才のときに母と祖母のため、神奈川県鎌倉市に家を買った。

「15才のときから、私が一家の大黒柱として経済的にも精神的にも、マミーと祖母を支えていました。『私がしっかりしなきゃ!』という思いがどんどん強くなっていきましたね。いまの時代だと、それをひどいという人もいますが、当時は当たり前。似たような家族は周りにもたくさんいましたし、私も辛いとは思いませんでした」

千代子さんは秋川が働き始めた途端、仕事を辞め、秋川の稼いだお金の管理に専念することになったが、これがのちに大きな問題となる。

後編に続く)

◆モデル 秋川リサ
1952 年、東京生まれ。俳優・タレント・ビーズ作家としても活躍。’67年、15才でモデルとして活動を始め、翌年、資生堂のサマーキャンペーンでCMデビュー。雑誌『anan』のレギュラーモデルや、総合化学メーカー『帝人』の専属モデルとして人気を集め、デザイナーの故・三宅一生さんのニューヨーク・コレクションや、故・高田賢三さんのパリ・コレクションにも参加。その後、ドラマや映画、舞台にも出演。’01年には、ビーズ刺繍作家としてビーズアートの教室を開設。主な著書に『母の日記』(NOVA出版)、『秋川リサの子育てはいつだって現在進行形』(鎌倉書房)、『秋川リサのビーズワーク』(日本ヴォーグ社)、『60歳。だからなんなの』(さくら舎)など多数。

 

取材・文/上村久留美

関連キーワード