
人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、依存対象、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。俳優・秋川リサ(73才)の独占告白、前編。
明治生まれの祖母が母親代わりに

昭和42(1967)年、15才でモデルとしてデビューすると、テレビCMやファッション誌などで活躍し、脚光を浴びた俳優の秋川リサ(73才)。華々しい活躍の裏で、幼少期から母との確執を抱えていた――
「マミー(母)は終戦後、東京・愛宕山にあったアメリカ軍施設内のレストランで働いていました。そこでアメリカ空軍の技術者だったドイツ系アメリカ人の父と知り合い、25才で私を出産したんです」(秋川リサ・以下同)
父親はこのとき、離婚訴訟中の妻と娘をアメリカに残して日本で働いており、そこで秋川の母・千代子さんと恋に落ちたのだ。しかし、秋川が生まれる前にドイツのベルリンに赴任。千代子さんは未婚の母となった。秋川が4才頃までは手紙が来ていたが、やがて連絡が途絶えた。仕送りはそもそもなかったという。
千代子さんは、幼い秋川と母(秋川の祖母)・勝子さんを養うため、友人と二人でスナックを始め、深夜まで働いていたという。仕事で不在の多い千代子さんに代わり、明治25(1892)年生まれの祖母が秋川を育てた。
「私は15才のときすでに身長が172㎝ありました。幼い頃から容姿のせいで好奇な目で見られ、陰口を叩かれたり差別されたりすることが多かったのですが、祖母からはいつも『あなたがそう扱われるのは仕方がない、当たり前のこと。通りすがりにあなたを見て振り向く人がいるのなら、あえてそれを待ち構え、“何か御用ですか?”と言い返せるくらいの強さと教養を身につけなさい』と教えられてきました」
家計はいつも火の車だったが、それでも秋川は、幼稚園から高校1年の初めまで、私立の一貫校であるいわゆる“お嬢様学校”に通わせてもらい、勉学に励んだ。しつけに厳しい祖母からあらゆるマナーを教わり、友人の誕生日パーティーに招かれれば、祖母が縫った着物を着て出かけ、恥をかくことのないよう育ててもらったという。
「自由になりたい」と言い続け‥‥
一方で千代子さんは、常日頃から「自由になりたい」「好きなようにしたい」と不満を言っては、勝子さんとよくけんかをしていた。“新しいパピー”という男性を家に連れてきたり、家をしばらく不在にしたりすることも度々あったという。
「マミーは小柄ですがスリムでスタイルがよく、肌がきれいな女性でした。男性にとってはかなり魅力的だったと思います。マミーが50代のとき、私と一緒に行ったオーストラリアやハワイのビーチではビキニの水着を見事に着こなしていたほどですから。
中学・高校といった青春時代に戦争を経験したマミーは、大好きなおしゃれもできずにがまんを強いられてきました。父親もおらず寂しい思いをしてきたうえ、祖母は成績のいい息子(秋川の叔父)ばかりかわいがり、マミーには『あんたは橋の下から拾ってきた』といったこともあるようで‥‥。それなのにマミーは学生時代から働いて、弟の大学の費用を援助していたようです。そのせいか、包容力や財力のある男性に頼り、甘えてしまう部分がありましたね」
「祖母もよくなかったのだ」と、秋川は振り返る。
勝子さんは若い頃、新橋で芸者をしており、新聞記者だった祖父と関係を持ち、未婚で千代子さんを出産した。勝子さんが祖父と結婚したのは本妻が亡くなってから。千代子さんが小学生のときだったが、幸せもつかの間。日本の敗戦が濃厚になると、祖父は単身で福井の実家に戻り、勝子さんたち母子と別居することになった。
秋川は両親の愛をあまり受けてこなかったが、千代子さんもまた同じだったのだ。しかし秋川は、「マミーのようにはならない」と、母や祖母、自分を差別する大人たち、母の恋人たちを冷静に見て、自立心を養っていった。
母の若い恋人を追い出すと「絶対許さない」と激怒
「私が7才のときに一緒に暮らした“新しいパピー”はやさしくて、いろいろな所に連れて行ってくれたし、剣道や詩吟を教えてくれるなど、とてもかわいがってくれました。でもある日突然、来なくなりました。マミーに理由を聞くと、『会社がつぶれそうなんだって。お金がないんじゃ、つきあう意味がないもの』と‥…。子供ながらに、それはないだろうと思いましたね」
秋川が13才のときには、千代子さんより7~8才若い恋人が一緒に暮らすようになったが、この男性はあまり働かずに、唯一テレビのある母の部屋をひとりで占領していたという。そこである日、秋川が啖呵を切って追い出した。
「彼がいると好きなテレビ番組が見られないし、うるさいと言われるからお友達と電話もできない。食事を用意しても礼のひとつも言えない‥‥理由はいろいろありましたが何より、中学生になり、体が大人びてきた私を“女性”として意識してくるので、危機感を感じたんです」
勝子さんも「私もあの人、虫が好かなかったわ」と言ってくれたので、家族のためによいことをしたと思った秋川だったが、千代子さんは、「あんたは私の最後の幸せを壊したのよ。絶対に許さない」と激怒し、秋川が生活費を稼ぐようになるまで、口をきかなくなったという。
秋川が15才で大黒柱になると母は仕事を辞めた

秋川が千代子さんの恋人を追い出してから、2人は言葉を交わさなくなったが、それでも学費を払わない、ということはなかった。
ところが、秋川が高校に入学した直後、千代子さんのスナックが倒産する。おまけに勝子さんは転倒して大腿骨を骨折。長期入院を余儀なくされた。
「入院中の祖母から、『働かざる者食うべからず。もって生まれた容姿を生かして仕事をしなさい』といわれ、知り合いのモデル事務所を紹介してもらいました」
モデルに興味のない秋川だったが、面接は合格。すぐに仕事が入ってきた。それまで通っていた学校はアルバイトが禁止だったため、別の高校に転入した。
デビュー後、仕事は順調だった。ファッションショーやテレビCMなどの仕事が次々に決まり、あっという間にスターダムにのし上がった秋川は、デビューから3年経った18才のときに母と祖母のため、神奈川県鎌倉市に家を買った。
「15才のときから、私が一家の大黒柱として経済的にも精神的にも、マミーと祖母を支えていました。『私がしっかりしなきゃ!』という思いがどんどん強くなっていきましたね。いまの時代だと、それをひどいという人もいますが、当時は当たり前。似たような家族は周りにもたくさんいましたし、私も辛いとは思いませんでした」
千代子さんは秋川が働き始めた途端、仕事を辞め、秋川の稼いだお金の管理に専念することになったが、これがのちに大きな問題となる。
(後編に続く)
◆モデル 秋川リサ
1952 年、東京生まれ。俳優・タレント・ビーズ作家としても活躍。’67年、15才でモデルとして活動を始め、翌年、資生堂のサマーキャンペーンでCMデビュー。雑誌『anan』のレギュラーモデルや、総合化学メーカー『帝人』の専属モデルとして人気を集め、デザイナーの故・三宅一生さんのニューヨーク・コレクションや、故・高田賢三さんのパリ・コレクションにも参加。その後、ドラマや映画、舞台にも出演。’01年には、ビーズ刺繍作家としてビーズアートの教室を開設。主な著書に『母の日記』(NOVA出版)、『秋川リサの子育てはいつだって現在進行形』(鎌倉書房)、『秋川リサのビーズワーク』(日本ヴォーグ社)、『60歳。だからなんなの』(さくら舎)など多数。
取材・文/上村久留美