エンタメ

【追悼いしだあゆみさん】おだやかだった晩年 超朝早寝早起きの“電気を使わない生活”、楽しみは「コンビニで人間観察」 大量の洋服にはさみを入れ、身の回りの物を処分 

3月11日に亡くなった、いしだあゆみさん
写真4枚

歌手としても、女優としても大きな功績を残したいしだあゆみさんが天国へと旅立った。長年、芸能界というきらびやかな世界で生きてきたスターの晩年は、静かで穏やかなものだった。

「近親者のみで執り行われた葬儀は、妹で元歌手の石田ゆりさん(73才)が中心になって進めたそうです。本人の意向で、『お別れの会』のようなものは予定されていません。晩年は慎ましやかな生活をし、世間の注目を集めることから距離を置こうとする人でしたから、それも彼女らしいなって」

そう語るのは、3月11日に甲状腺機能低下症のためこの世を去ったいしだあゆみさん(享年76)の古くからの知人だ。別れは突然だった。

「体調を崩したのは3月に入ってから。都内の病院に入院後、わずか1週間ほどで亡くなりました。病室には妹のゆりさんが毎日のように通い、最期を看取ったのもゆりさんだったそうです」(前出・知人)

長崎県生まれ、大阪育ちのいしださんは、5才の頃から児童劇団で活動。1964年、高校2年生のときにレコードデビューすると、独特の声色で歌いあげた『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)などがヒットし、NHK紅白歌合戦には計10回も出場した。

1980年代以降は女優としても華々しく活躍。『北の国から』(フジテレビ系)、『金曜日の妻たちへ』(TBS系)といった名作に出演し、1986年の映画『火宅の人』と『時計 Adieu l’Hiver』の演技で、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。まさに日本を代表する女優であり、2021年には旭日小綬章を受章した。昨年公開された連作映画『室井慎次 敗れざる者』『室井慎次 生き続ける者』が遺作になった。

キャリアは歌手からスタートした(1969年)
写真4枚

近年、いしださんは都内一等地にあるマンションでひとり暮らしをしていた。

「午後7時には就寝し、午前2時に起きる超早寝早起きがルーティン。電気をつける前に寝るといい、本人は“電気を使わない生活”と表現していました。日が出ていない早朝から近所を散歩するのを日課にしていたようです。日によっては2時間歩くこともあったそうです」(芸能関係者)

健康的に見える早起き生活には、別の理由もあったようだ。

「撮影現場では初めて会ったスタッフに自ら挨拶しに行くなど、一期一会を大切にしていて多くの人から慕われていました。笑い上戸で、現場ではいつもいしださんの笑い声が聞こえていましたよ。

ただ、プライベートでは人目につくことを嫌がる様子もありました。だから、散歩は誰とも顔を合わせなくていい暗い時間を選んでいたし、日中に出かけるときには帽子を目深に被り、愛車のミニクーパーを運転することも多かったそうです」(前出・芸能関係者)

自宅マンション近隣の飲食店に食事に出ることもほとんどなかったという。日常生活の楽しみの1つが「人間観察」だった。

「コンビニのイートインに入り、食事をしている人を“観察するのが楽しい”と、トーク番組で明かしたこともあります。コンビニにはよく通っていたそうで、コンビニのお菓子で食事を済ませてしまうこともあったそうです。もともと食が細く、それで事足りたんでしょう。普段から着物を着ることが多かったのは、“華奢な体形を隠すには着物がいちばんだから”というのが理由でした」(前出・芸能関係者)

洋服に自らはさみを入れた

いしださんが、終の住処となった都内のマンションに移り住んだのは、60才になる直前のことだった。それまでは神奈川・鎌倉に建てた豪邸で暮らしていた。

着物姿のいしだあゆみさん
写真4枚

「収納スペースがふんだんにあったこともあり、洋服や靴、バッグやアクセサリーが所狭しと並んでいました。若い頃から体形がほとんど変わらなかったので、洋服は増えるばかりだったようです」(前出・知人)

仕事のときには、自らハンドルを握って都心まで2時間かけて通っていた。だが50代中盤を過ぎると長距離運転の負担が大きくなったことで、転居を決意したという。大量の洋服には自らはさみを入れ、バッグやアクセサリーは姉妹にプレゼント。たんすや棚も処分したばかりか、食器やグラスなども最低限のものだけを残し、整理した。

「ピアスをしなくなったことで、耳のピアスホールが塞がったと笑いながら話していたのが印象的でした。身の回りのものがなくなったことで、逆に気持ちは充実しているように見えました。夫も子供もいないいしださんは孤独と言えるのかもしれませんが、最後まで幸福な生活だったと思います」(前出・知人)

関連キーワード