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“アフロ記者”稲垣えみ子さんにとってピアノは「老い方のレッスン」、その真意とは?

稲垣えみ子さん
50代でピアノを再び始めた稲垣えみ子さん。当初は発表会に出場するつもりはなかったが…
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アフロヘアーがトレードマーク、元朝日新聞記者の稲垣えみ子さん(57歳)が、50歳で朝日新聞社を退社後、40年ぶりにピアノを再開してからの奮闘を描くエッセイ集『老後とピアノ』(ポプラ社)が反響を呼んでいます。出場するつもりがなかったというピアノの発表会を乗り越えたことで得たものとは――稲垣さんに聞きました。

本番1か月前からは仕事が手につかなくなった

稲垣さんは思うように体が動かず悪戦苦闘しながらも毎日2、3時間ピアノを練習。さすがに徐々に上達はしてきたが、当初は人前で弾くつもりなど全くなかった。

「そもそも誰に聴かせたいわけでもなく、自分が楽しいから弾いているんです。目標がなければ挫折もない。急がなければあきらめることもない。最高です!」(稲垣さん・以下同)

そんな稲垣さんだが、レッスンを始めて約1年半後、ピアノの発表会に出ることになる。

稲垣えみ子さん
発表会に出るなんて考えてもいなかったが先生の一言で気持ちに変化が
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「先生から“出ませんか?”と提案されました。もちろん全力で断ったのですが、“人前で3回弾いて、失敗もして、悔しい思いもして、やっとその曲が自分のものになる感じがする”とおっしゃった。なるほど曲を自分のものにするために人前で弾くという考え方があったのかと。

言うまでもなく私、曲が自分のものになった体験なんてないわけで、というかそのために毎日何時間も練習しているわけで、それじゃあ出ないわけにはいかんだろうと清水の舞台から飛び降りることに」

選んだ曲は、ショパンの『マズルカ第13番』。練習すれどもすれども自信が持てず、本番1か月ほど前からは仕事がまったく手につかなくなり、「もしや人生を棒に振っているんじゃ」と。

稲垣えみ子さん
出るとは言ったものの、ピアノのことで頭がいっぱい。仕事が手につかない状態に
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「そうこうするうちにも発表会の日は容赦なく迫ってきます。もう焦る焦る。ゆっくり丁寧に練習しなきゃと思ってもなかなかできない。でも考えてみれば、私はいつも焦っていました。だって人生のデッドラインも刻一刻と容赦なく近づいている。

なのに弾きたい曲は数限りないから、しゃかりきになって前に進んでいかなければ一生なんてすぐ終わってしまうと考えていた。でも、それじゃあダメなのです」

ピアノを始めて必ず聞かれた「発表会は?」

結局、十分な準備など全くしきれぬ中で本番当日を迎える。そこに集まっていたのは、自分と同様にド緊張した同じ「大人のピアノ」学習者の群れ。手が震えたり立ち往生したりという悪夢が目の前で展開されているのを見てますます緊張するが、次第に、そんな中でも懸命に集中して曲を弾き切ろうとする仲間たちの演奏に感動している自分に気づいたという。

「そう気づいたら、失敗したっていいではないか。ただ懸命に弾けばいいんだと思えて、奇跡的に平常心で演奏することができたんです。この時の体験で、これから先の人生に向き合っていく上での、大きな勇気のようなものを得ました。なにがあっても前を向いて、不器用でも格好悪くても朗らかに生きていけばいいじゃないかと」

稲垣えみ子さん
当日は失敗してもいいじゃないかと、平常心で弾くことができた
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ピアノを始めて驚いたのは、「ピアノを練習しています」と言うと、ほぼ100%の人が「いつか発表会をやるんですか?」と、目標がどこにあるか聞かれたこと。

「毎日2、3時間も練習しているというと、なんのためにしているのかと必ず聞かれました。でも、続けてみてよくわかったのが、自分は練習の先になにかがあるから、そのために苦しい練習に堪えて成果を求めているわけではないということです。

だって私がピアノを毎日練習しても、その成果を聴いているのは先生だけなんですよ。しかも先生の前で弾くとすごく緊張していつもボロボロ。はっきり言って、壮大な無駄です。誰のためにもなっていない。でも、練習することそのものが楽しいんです」

稲垣えみ子さん
毎日練習するのは誰のためでもなく、楽しいから弾いているだけ
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本のタイトルを『老後とピアノ』にした理由

世の中には2つの世界があるのではないか、と稲垣さんは語る。

稲垣えみ子さん
ピアノは、成果や効率とは全然関係ないところに希望を感じさせてくれた
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「1つは目標を持って、それに向けて効率的に練習をしたり、手間も時間もかけずに最短で達成するのがいいという世界。仕事も趣味も、いかに無駄を省いて生産性を上げるかに注目が集まっているような気がします。

でも、正反対の世界もある。本のタイトルを『老後とピアノ』にした理由もそこにあります。老いていくということは、成果主義や効率主義でいえば、どんどん負けていくことですよね。昨日まで出せていた結果もだんだん出せなくなり、体が動かなくなって、死んでいく。だから成果主義、効率主義だけで立ち向かっていこうとしたら、なんの希望もないと思うんですよ。

そういう老いを目前にしたときにピアノに出会って、成果や効率と全然関係ないところに喜びがあった、ということに希望を感じています。私にとってピアノは老い方のレッスンなのかもしれません」

◆フリーランサー・稲垣えみ子さん

フリーランサー・稲垣えみ子さん
フリーランサー・稲垣えみ子さん
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1965年生まれ。愛知県出身。朝日新聞社で論説委員、編集委員などを歴任。2016年に50歳で退社し、フリーランスに。著書に『魂の退社』『寂しい生活』『人生はどこでもドア』『一人飲みで生きていく』など。『もうレシピ本はいらない』で第5回日本レシピ本大賞エッセイ賞を受賞。今年1月、40年ぶりのピアノ体験を綴った『老後とピアノ』(ポプラ社)を出版。

撮影/浅野剛 取材・文/小山内麗香

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