ライター歴43年のベテラン、オバ記者こと野原広子(65歳)が、介護を経験して感じたリアルな日々を綴る。昨年、茨城の実家で母ちゃんの介護したオバ記者。その母ちゃんが亡くなって約2か月半、思い出したのは介護の日々を綴った2冊のノートのこと。最近になって初めてしっかり目を通したというそのノート。そこに綴られていたのは…。
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母ちゃんを介護した日々を記した2冊のノート
今年の3月、93歳で亡くなった母ちゃんを、前年の夏から冬の初めまで自宅介護したあれこれは何度も書いたけれど、まだ一度も触れていないことがある。それは2冊のノートのこと。
1冊は私と弟の連絡ノートで、これは最初の1か月で終わっている。もう1冊は介護ヘルパー会社のOさんが書いてくれた冬の初めに老健(介護老人保健施設)に入居するまでの4か月の記録だ。
そのノートはずっと私の手元にあったけれどちゃんと開いて読んだのは、つい最近のこと。あの介護の日々を思い出したくない気持ちが半分、母ちゃんの死を認めたくない気持ちが半分。
東京に戻ってきて前と同じように仕事したり、人と会ったり、法事に帰省したりして、母ちゃんのいない世界を普通の顔して歩き始めたんだから、後ろを振り向きたくないと無意識に思っていたんだと思う。
ノートを開いてみたら心温まる瞬間が
「長生きはするもんだね。残された家族は93歳まで生きたんだからってずいぶん慰めになるもの」と、人と会うと話していた。死んだ人は死んだ人。母ちゃんだって人類史上、海の砂粒ほどある人の死のひと粒で、何を騒ぐことがある、とかね。
そんなデカいことを自分に言い聞かせながらも、最後の日々を綴った2冊のノートを開けない。でも亡くなって2か月が過ぎた今、読み返してみたら、意外なことに心温まる芝居のような瞬間もあったんだよね。
たとえば退院して4日目、8月6日の午前3時半。母ちゃんの「マサコ、マサコぉ」という声で起こされて目が覚めたら、ベッドで上半身がはだけている。それまで寝返りを打つのがやっとだったのに、どうやってパジャマのボタンを開けたのか。
「マサコっちゃ誰だよ!」というと、黙る。マサコは東京に住む実の妹の名前だけど、夢でもみた?
で、オムツを交換して新しいパジャマとシャツを着替えさせると、母ちゃんがふいに「はぁ、病院には行きたぐねえよ」とハッキリした声で言ったんだわ。
それまで一方的に「水」とか「そっち(ポータブルトイレ)」とか言ったけど、まとまった会話をしたのはこの夜が初めてだ。鮮明にその時のことがよみがえってきた。
思わずベッドのふちに腰掛けて、母ちゃんの手を取って甲をさすってやると、「オレも93だがんなぁ。年はとりだぐねぇなぁ」と天井を見ながら言う。
「でも母ちゃん、ずっと若いまんまだとそれはそれで大変だっぺ」というと、「そだなぁ」と否定しないの。けど、また「病院はやだよ」と言うから、「大丈夫だよ。私が世話すっから」と言って、母ちゃんの手を自分の太ももにポンポンと乗っけたわけ。
そうしたら母ちゃん、「そっかぁ。まだヒロコといられんだな~」だって。これ、殺し文句でしょ! 聞いた瞬間、やられた~、チクショーと思ったもんね。
その後で「トコロテン食いてえな」と言われた私は、飛び上がるような勢いで台所に行ったと記憶している。
母ちゃんとは価値観が違いすぎた
てかさ、そもそも母ちゃんは私と一緒に住みたいと思っていた?という疑問もある。少なくとも私はそうは思っていなかったの。そりゃあ、帰省して帰る時間になると、ちょっと寂しげに「帰んのが?」とは言ったし、もう一晩泊まるといえばきっと喜んだと思うよ。でもそれといっしょに住むのは別でしょ。
まず昭和3年生まれの母ちゃんと昭和32年生まれの私では、価値観が違いすぎて、話にならないもの。たとえばしばらく会わなかった私の友人が、高級メロンを持って母ちゃんの見舞いに来てくれた。そのお礼に行ってくるというと、「卵買って持っていってやれ」と言うの。卵が砂糖のときもあるんだけど、ワケわかんないでしょ?
「ああ、昔の人はちょっとした手土産に卵とか砂糖を使ったんですよ」と、昭和6年、東京生まれの最年長のボーイフレンドは言うけれど、いったいいつの話よ。だけど母ちゃんは人は砂糖や卵をもらったら喜ぶと思って疑わないから、いったん口にすると絶対に引っ込めない。
それから出かけるときに家の鍵を閉めろとは言わないくせに、電気を消し忘れると大騒ぎする、とか。ひとつひとつは大したことじゃないけど、いっしょに住むとなるとすごいストレスだよ。