
ライター歴43年のベテラン、オバ記者こと野原広子(64歳)が、介護を経験して感じたリアルな日々を綴る。昨年、4か月間、茨城の実家で93歳「母ちゃん」を介護。その後、施設に入所した母ちゃんだったが2月中旬、体調に“異変”があり緊急入院。コロナ禍で面会ができなかったが1週間前、担当医師から面会の許可が出たのだった――。
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ベッドで寝ている母ちゃんと対面
「いつ何があるかわからない状態です」
1か月前に食事ができなくなり、総合病院に入院した母ちゃんの様子を芥川龍之介似のU医師はそう言ったそうな。
それまで弟には「血糖値が通常の8倍になりました」「昨日から受け答えができなくなっています」と連絡が入っていたけれど、ご時世柄、お見舞いは厳禁。なのに今度ばかりはその禁をといて短時間なら会わせてくれると言う。ということはそれなりのこと。覚悟して上野駅から新幹線に乗って駆けつけたのが先週の土曜日だ。
足かけ3年、母ちゃんが総合病院に入院するのは3度目のこと。短期入院や通院を入れたら、何回足を運んだかわからない。すっかりおなじみの駐車場から玄関を通って「病室がどごが聞いてくっから」と弟は受付へ。
だけどいざエレベーターに乗ったら、「あれ、3階だっけ?」。気が動転しているのか、なかなか病室にたどり着けないの。ナースステーションで聞いて2階へ降りて、やっとベッドで寝ている母ちゃんと対面した。
見舞いした中で「いちばんいい顔」をしてる
「母ちゃん、どした?」と声をかけても無反応。目を閉じたままで動かない。けど、母親の顔色は明るい。いままで何度も病室で寝ている母ちゃんを見舞ったけど、いちばんいい顔なんだわ。

それなのにU医師は顔を固くして、「最期の症状に、尿が出なくなるというのがあるんですけど、とし江さんは昨日からその症状が出ています」と言う。
さらに「ここから先は神の領域です。急にスッ~とあちらに行ってしまうかもしれないし、数日このままかもしれません」とU医師は大きな目をさらに大きく見開くの。
担当医師の名前を覚えていた母ちゃん
母ちゃんは、昨年6月にこの病院で意識不明、危篤になった。それから入院している2か月間、ほぼ意識がなかったと聞いていたけど、実はこのU医師のフルネームを覚えていたの。

私がそのことを知ったのは自宅での介護中、U医師が2度目に訪問診察に来てくれた時。U医師が、母ちゃんがニコニコと笑いかけるのを眩しそうに見て、「奇跡です。医学では説明できません」と何度も同じことを言って帰っていった後、母ちゃんがふいに彼の名を言ったんだわ。
驚いて「何で知ってんで?」と聞いたら、「はぁ(もう)、U先生はそごいらにいる医者じゃねーって初めて見たとぎから、ピンときたがら名前覚えだのよ」だって。
私は何人かの訪問看護師さんから、U医師が以前はドクターヘリに乗っていた救急医療医師だったと言うことを聞いて知っていたけど、耳の遠い母ちゃんがそんなこと知るはずがない。
「あんな優秀な医者さまにあだって(当たって)母ちゃんは運がいいな」と言うと、「そだなぁ。はぁ、母ちゃんは顔見だだげで、そごいらの医者じゃねーってわがんだよ」だって。
私はこれまで的確な医療をしてくれたU医師を称えたのに、母ちゃんはそれを「自分の目は確かだ」という自慢話にすり替える。オレが、オレがと前に出る性格は昔からまったく変わらない。
季節の復活をしたらまた介護をしてもいい
いずれにせよ、虫の息かと思っていたのに顔も呼吸も穏やかでひとまず安心した私に、U医師は「耳は聞こえるそうですから話しかけてやってください」と言うので「母ちゃん、うじの校長先生(弟)が3月○日に卒業式やんだよ。それまでは頑張ってくれっか?」と、まずはいちばん気がかりだったことを耳元で言ってみた。

ん? 今、ちょっと口元が動かなかった? 「はあ(もう)、いづまでも寝でんじゃね。そろそろじゃがいもの種芋、植えなくちゃなんねーべ! はだげ(畑)、今年は私も手伝うよ。いっしょにやっぺな」と、気がつくと私は思いもよらないことを口走っていた。
自宅介護は二度とイヤというのもホントだけど、もしまた昨年の夏みたいに奇跡の復活をしたら、短期間なら介護をしてもいい、ような気がしたの。
賞をとった母ちゃんのじゃがいも
そうそう、じゃがいもといえば母ちゃんの自慢話がある。あれは私が農業高校3年の時だから約半世紀も前のこと。高校の収穫祭に家庭菜園で作ったじゃがいもを出品したら賞をとった。

出荷農家に競り勝ったことがものすごくうれしかったのね。それからは毎年、春になると切ったじゃがいもに灰をつけて蒔いていたっけ。そして収穫すると段ボールに詰めて得意満面。亡くなった父親の運転で、毎年、私の東京のアパートまで運んできた。

そんなことを実家の茶の間でぼんやり思い出していたら、「姉ちゃん、いつ母ちゃんが帰って来てもいいように、うじ(家)片付けっぺよ」と弟。
紙オムツ、パジャマ、洋服。片っ端からゴミ袋に突っ込んだ。まだ母ちゃんの体温が残っていそうなパジャマを手にした時はズキンと胸が傷んだけど、エイッとゴミ袋に押し込んだ。だけど、母ちゃんがよく着ていた上着だけは残すことにした。
「悲しい」と言って大粒の涙を流したU医師
母ちゃんが息を引き取ったのはそれから2日後の午後3時過ぎ。弟夫婦が立ち合う中、U医師は臨終の儀式を執り行った。

そして「とし江さんにはさまざまなことを教わりました。とし江さんが亡くなって私は悲しいです」と言って、大きな目から大粒の涙をこぼしたのだそうな。
母ちゃんの死が悲しいかどうか、今はまだピンとこないけど、このシーンを思い浮かべるたびに涙が込み上げてきて困っちゃう。
◆ライター・オバ記者(野原広子)

1957年生まれ、茨城県出身。体当たり取材が人気のライター。これまで、さまざまなダイエット企画にチャレンジしたほか、富士登山、AKB48なりきりや、『キングオブコント』に出場したことも。バラエティー番組『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系)に出演したこともある。昨年10月、自らのダイエット経験について綴った『まんがでもわかる人生ダイエット図鑑 で、やせたの?』を出版。
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