ライター歴43年のベテラン、オバ記者こと野原広子(65歳)が、介護を経験して感じたリアルな日々を綴る「介護のリアル」。昨年、茨城の実家で母親を介護し、最終的には病院で看取ったオバ記者。母親を亡くして4か月、今も毎日その姿を思い出すといいます。今回、綴るのは「楽しげ」にも見えたという、母親の亡くなった人の送り方について。
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ライターになると言った私に母ちゃんは…
この春、93歳で亡くなった母ちゃんの最終学歴は尋常小学校卒だ。3年前に亡くなった義父は6歳年下の昭和9年生まれで中学卒。その中学もちゃんと3年間、通ったかどうか。最低限の読み書きソロバンはできたけれど、毎朝開く新聞で見るのはテレビ欄と死亡欄だけ。私が記事を書いていた週刊誌は、“顔出し”をするまではほとんど興味をもたなかった。
そもそも地元に印刷会社はあるけど出版社はない。母ちゃんと義父ちゃんの頭にマスコミはないし、新聞も雑誌もどこか知らないところで誰かが作っているもの。だから高卒で靴屋の住み込み店員になった私が1年後に雑誌のライターになるから、靴屋をやめてマスコミの専門学校に行きたいと言い出したときは、母ちゃんは「そんなバカなこと言ってないで、マジメに働け」とものすごく怒ったんだわ。
寮を出てアパ―トを借りるからお金をくれとか言ったときはギロリと目を見開いて、ウンでもスンでもない。話にならないのよ。
アパートの敷金と礼金と専門学校の入学金と半期分の学費は、靴屋が1年間、天引き預金をしてくれた28万円でまかなったけれど、喫茶店のウエイトレスの時給400円の稼ぎでは後が続かない。お金がなくて困ることはいっぱいあるけれど、本当に一歩も前に出られないことが起きたの。一足しかない安い靴の靴底がパカンと開いて歩けなくなったのよ。そのときは靴をひもでグルグルに縛って電車を乗り継いで喫茶店のアルバイトに出かけたっけ。喫茶店にはサンダルがおいてあったのよ。
娘の生き方が心底理解できなかった
なんて苦労話をしても、「せっかく高校の世話で住み込みで働けるところに入ったのに、わけわかんないこと言って辞めて、何が生活がキツイだ」と怒っている母ちゃんは、私が明日食うにも困っていると言ってもガンとしてお金をくれない。くれないどころか、「そんなこと言うなら東京になんか行ってねぇで、こっちで働け」と、私からしたらとんでもないことを言うんだわ。
で、最後は「ほれ」と千円札を一枚、畳に投げてよこしたけれど、国鉄の常磐線と関東鉄道つくば線の運賃が往復2000円。息の根が止まるような大赤字よ。
それほどかたくなに母ちゃんが学費も生活費も出さなかったのは、ひと言でいえば「無理解」。
娘の生き方が心底理解できなかったんだよね。それだけ母ちゃんには女はこう生きるべきという、まあ、カッコよく言えば哲学?があって、あとからそれを知って腰が抜けるほどびっくりすることになったんだけどね。